伊賀越戦死者200人について(その3)

家忠日記』の

此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候

が「家康の軍勢が200人討たれた」だった場合、家康の軍勢は一体何人だったのだろうか?200人以上いたことになるのは確かだが何人いたのかはわからない。でも300人で200人討たれた程の苦難があったとしたら、さすがにそういった話は伝わっていると思われる。1000人〜2000人はいたということになるのではないか?


だが、その人数は一体どこから調達したのだろうか?


『ブリタニカ国際大百科事典』に

伊賀の郷士 300人に警備され,事なきを得たため

伊賀者(いがもの)とは - コトバンク
と出典不明ながら書いてある。


『大和記』という史料には

則ち此の者を召し連れられ、其の道筋を直に東の方へ、御先は穴山殿都合にて、三百計りにて御通り遊ばされ候処に

2008-07-02: 備前老人日記
とあるそうだ。これは総勢300人という話だが「此の者=吉川主馬之助」が従者を連れてきたとしても300人以内ということになる。


このあたりあまり詳しくないんだけれど、もし1000人から2000人いたとしたら伊賀者を除いても家康の元からの軍勢は相当いたことになるだろう。


それをどこで調達したかといえば、普通に考えれば家康が上洛したときから既にいたのだという可能性が一番高いのではあるまいか?


信長公記』によれば5月14日に織田信忠が上洛、家康・梅雪は5月15日に安土に到着。20日

家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉・此外、家老の衆に御食を下され、忝くも、信長公御自身御膳を据ゑさせられ、御崇敬斜めならず。御食過ぎ候て、家康公、御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、御帷下され、御馳走申す計りなし
(『新訂信長公記新人物往来社

という接待を受けた。ここはまあ「家康公、御伴衆、上下残さず」に雑兵は含まれていないだろう。


5月21日、家康上洛。京都・大坂・奈良・堺を見物せよとの上意。5月29日、信長上洛。直ちに中国へ発向するとの触れ。6月1日の夜、本能寺の変。家康、堺にて本能寺の変を知る。


で、もし本能寺の変が無かったならば家康・梅雪はこの後どうしたのだろうか?家康・梅雪一行の「京都・大坂・奈良・堺」旅行の詳細を俺は知らないんだけれども、信長は直ちに中国発向といっても、まだ命じた段階だから自身が出発するにはまだ日数があると思われ、家康一行はお礼のために京都に向かったのではないだろうか?


ところで、本能寺の変の際に京都に織田の軍勢がどれくらいいたのだろうか?『本能寺の変』(藤本正行)では二条御所に集まらなかった者や従者まで含めて「総数は二千人以上」いただろうと推測している。1万人であっても2000人以上だけれど、そういうことではなくて2千と数百人程度ということだろう。それに女房衆や下男下女を加えればさらに多くなるんだろうけれども、戦力にはなるまい。


で、疑問は、京都にいる信長の人数が2000人程度だったとして、そこに家康・梅雪が2000人も引き連れていくなんてことはあるだろうか?ということ。ちょっと考えられないのではないか?では1000人ならどうだろうか?これならありえるかもしれないけれど、個人的にはそれでも多すぎるのではないかと思うのである。


俺は先の『大和物語』にあるように、伊賀者含めて300人程度というのが事実に近いのではないかと思う。だから「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」は家康側が討たられたという話ではないと思う。