伊賀越戦死者200人について(その4)

そもそも「討たれた」にせよ「討った」にせよ200人は多すぎるのではないか?


俺は「落ち武者狩り」に詳しくないけれど、たとえば明智光秀は土民に襲撃されて死んだというけれど、この時光秀は近臣5〜6人だったという。この程度なら相手が武士といえども大人数で襲えば勝てるだろう。


しかし1000人とか2000人とかはもちろん、100人あるいは数十人だったとしても襲えば襲った側にも死者が出る可能性が高い。何か信念があって襲うのならば犠牲も厭わないかもしれなけれど、所持品を奪うことや褒美を貰うことを目的としている場合、命を賭してまで戦うほどの士気があるだろうか?こちらは不利なら逃げればいいけれど相手は負けたら死がほぼ確実な状態で「背水の陣」なのだ。相手を全滅させて勝利したけれども、こちらも多数の犠牲が出たなんて戦いをやるだろうか?


先にも引用した『大和記』によれば

其の東の町外れに天神山と申す小さき山御座候か。
其の山隠れより石原田と申し候、大和中の悪党の者、五十人計り罷り出で、時の聲を上げ、鉄砲を五六挺撃ち懸け申し候。
梅雪は申すに及ばず、權現樣にも二三町、御引き退き遊ばされ候ところに、右の主馬之助、真っ先に進みて、悪党どもを追い払い候故、其の所をば無事に御通り遊ばされ候。

2008-07-02: 備前老人日記
とある。『大和記』では家康一行は約300人で、それを約50人の悪党が攻撃したという。ただし鉄砲を撃ちかけたのであって刀や槍で襲ってきたのではない。飛び道具で相手の大将(=家康・梅雪)を狙ったのだろうと思われる。


このあたり、上に書いたことを考慮すればリアリティがあり、現実にもこういうことがあったのではないだろうか?


東照宮御実記』には

四日石原村にかゝり給へは。一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追拂ひ。

東照宮御実紀 徳川実紀 東照宮御実紀 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言
とある。『大和記』に「石原田」とあり、こちらは「石原村」。同じ出来事を記しているのだろう。「道を遮る」であって、こっちも刀や槍で襲ってきたわけではない。


そして家康方も一揆と本格的な戦闘をしたのではなく追い払っただけだ。圧倒的な力の差が無い状態で、勝利しても犠牲が出る可能性がある戦いをお互いに避けたのではないか?


このように考えると、「討たれた」にせよ「討った」にせよ、伊賀越で200人の戦死者が出たというのは無かったのではないだろうかと、どうしても思わずにはいられない。



で、ここでもう一つ気になるのは『大和記』によれば、この悪党に襲撃された場面に穴山梅雪がいること。あくまで推測だが、梅雪に鉄砲の玉が当たったのではないだろうか?負傷した梅雪は家康達と同行することができなくなり、もはやこれまでと切腹したのではないだろうか?そんな妄想が湧き出てくるのである。