穴山梅雪の死について

家忠日記』によれば

四日 庚寅 信長(御父子)之儀秘定候由、岡崎緒川より(明知別心也)申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也

「穴山は腹を切った」とある。これが一番信頼できる史料だと考えられるけれども、なぜ腹を切ったのかの経緯が書いてない。


信長公記』では

然うして、徳川家康公、穴山梅雪、長谷川竹、和泉の堺にて、信長公御父子御生害の由承り、取る物も取り敢えず、宇治田原越えにて、退かれ候ところ、一揆どもさし合ひ、穴山梅雪生害なり。徳川公、長谷川竹、桑名より舟にめされ、熱田湊へ船着なり。
(『新訂 信長公記新人物往来社

とある。こちらは「生害(自害)」とある。普通に読めば一揆に遭遇して、助からないと思い自害したということだろう。ただし家康と別行動だったというようなことは書いてない。


三河物語』には、

穴山梅雪ハ、家康を疑ひ奉りて、御後に下りておハしましける間、物取共が、打殺す。

とある。こちらでは殺されたことになっている。なお文脈的には殺された場所は伊賀国としているように思われる。


東照宮御実記』では、

穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる紱川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)
東照宮御実紀 徳川実紀 東照宮御実紀 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言

こちらでは、梅雪は家康と分れ、宇治田原の辺りで一揆に討たれたとする。


また、ルイス・フロイスの11月5日付報告書によると、

三河の国主は多数の兵と、賄賂とするための黄金を持っていたので何とか(街道を)通行し折よく避難した。穴山殿はやや出遅れたようであり、兵も少なかったため、途中で略奪に逢い、財物のいっさいを奪われたうえに兵をことごとく殺され、彼は辛うじて逃れた。

『十六・七世紀イエズス会日本報告集』

とある。『三河物語』に類似しているけれども、注目すべきは梅雪は「辛うじて逃れた」と書いてあること。つまり死んでないのだ。ただし、その直後に

この穴山殿はかつて信長とその息子が占領した甲斐国の太子であり(中略)後になって彼もまたその途上で殺されたのである。

とあり、11月5日時点では死んでいる。「途上」というのは梅雪がキリスト教に興味を示したのに、キリシタンになる前に死んでしまったという意味であろうと思われる。


この部分『本能寺の変・山崎の戦』(高柳光寿)では、

梅雪は出発が遅れた上に、部下の人数が少なかったために、たびたび一揆に襲撃され、部下と荷物とを失い、最後に自身も殺されたといっている。

と解釈しているけれども「たびたび一揆に襲撃され」とは読み取れないし、フロイスは梅雪が殺されたとは書いているけれども、一揆に殺されたということは読み取れないし、さらに伊賀越の途中で殺されたということさえも読み取れない。そういう認識で書いた可能性もあるけれど、本能寺の変から11月5日迄のどこかで殺されたというようにも読み取れる。高柳氏と同様の解釈をしている人は多いけれども安易な決めつけは危険であろう。


(つづく)