穴山梅雪の死について(その2)

前の記事でルイス・フロイスの11月5日付報告書に、

三河の国主は多数の兵と、賄賂とするための黄金を持っていたので何とか(街道を)通行し折よく避難した。穴山殿はやや出遅れたようであり、兵も少なかったため、途中で略奪に逢い、財物のいっさいを奪われたうえに兵をことごとく殺され、彼は辛うじて逃れた。

とあると書いた。ところが、『大日本史料』では1583年2月13日付「口の津発」となっていて、

三河の王は、兵士及び金子の準備十分なりしを以て、或は脅し或は物を與へて、結句通過するを得たり、穴山殿は出発遅れ、又少数の部下を従へし為め、更に不幸にして一度ならず襲撃せられ、先づ部下と荷物とを失ひ、最後に自身も殺されたり、

とあった。これは『本能寺の変・山崎の戦』(高柳光寿)の

梅雪は出発が遅れた上に、部下の人数が少なかったために、たびたび一揆に襲撃され、部下と荷物とを失い、最後に自身も殺されたといっている。

と符号する。


俺が見たのは『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第六巻』(1991)で、同書には1583年2月13日付「口之津発信」の書簡が掲載されているのだが、そこには日本の宗派についての説明が書かれていて、本能寺の変のことも伊賀越のことも全く書かれていない。


あと『大日本史料』は同じものを和訳したのだと思われるが日付が違う。そして肝心な穴山梅雪の死についての解釈が大きく異なっている。


どっちが正しいのだろうか?


(追記)19:47
この謎はさっぱり解けないのだが『大日本史料』には梅雪がキリスト教に関心を示した話が無いし、『大日本史料』では

三河の王及び穴山殿は、直に彼等の城に向ひしが、通路は既に守兵に占領せられたり、三河の王は、兵士及び金子の準備(以下略)

とあるのに、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』では、

知らせに接すると、その日のうちに急いで自国に向けて引き返した。三河の国主は多数の兵と、(以下略)

とあって「通路は既に守兵に占領せられたり」が抜けている。翻訳の問題というよりは、底本が異なる可能性が高いように思われる。


あと、

後になって彼もまたその途上で殺されたのである。

も、普通に読めばそうは読めないと思うんだけれど、伊賀越の「途上」で殺されたという意味の可能性があるように思えてきた。ただ

兵も少なかったため、途中で略奪に逢い、財物のいっさいを奪われたうえに兵をことごとく殺され、彼は辛うじて逃れた

はずの梅雪が「後になって」殺されたというのは、どういう状況なのだろうか?残った梅雪一人あるいは数人が歩いてたところを、また別の何者かが襲って殺したということだろうか?兵を殺した連中が、その後ただちに梅雪を殺したとするなら、それを「逃れた」とは言わないだろう。また、これをどう解釈しようと、この部分翻訳が正しいのだとしたら相当妙な文章である。翻訳に問題がある可能性があるけれど、だからといって俺にはこれ以上どうすることもできない。