保守とリベラル

保守とリベラルというアメリカ方言でものを考えるのはもうやめよう: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

いやだから、何よりかにより、近代社会の基本構造では、保守の反対語は革新、進歩主義であり、リベラルの反対語はソーシャルなのだから、こういう本来対にならないのを対にして「もうやめよう」とかいうのもそろそろもうやめたいところなんですけど。

保守の対義語は革新。それについてはこの前書いた。ただ、そこでも書いたように、『「保守」「リベラル」で思考停止するのはもうやめよう〜宇野重規×山本一郎対談』というタイトルは、おそらく編集部がつけたものであろうから(編集部が勝手につけたというのは良く聞く話)、宇野重規氏の責任ではないと思う。
宇野重規×山本一郎対談への微妙な違和感


でも「リベラルの反対語はソーシャル」というのは俺には納得のいかない話。何度もいうけどリベラルは全く意味の異なるのものに使われている。そして「ソーシャルなリベラル」という立場があるのだから、「リベラルの反対語はソーシャル」だと俺は思わない。そもそも「リベラル」とは「自由な」という意味。俺はほとんどのイデオロギーが「自由」を目指していると思っている。ただ違うイデオロギーを持つ人から見ればそれは「自由」ではないと見なされるということだろう。

つまりは、「新しい自由」への要求とは、富の平等な分配という古くからある要求の、ひとつの言い換えにすぎなかった。ところが、その主張を「新しい自由」と命名することによって、社会主義者たちは、自由主義者が使用する「自由」という言葉を自分たちの言葉として手に入れ、これを最大限に自分たちの目的のために利用してきた。この言葉は二つのグループの間でまったく異なった意味で使われているというのに、この決定的な違いに気づく人々はほとんどいなかったし、ましてこの二つの異なる自由を理論的に本当に結びつけることができるかを、真剣に考えようとした人も皆無に近かった。
 「より多くの自由を」という約束が、社会主義者たちの宣伝活動にとって最も有力な武器の一つとなったことは疑いないし、しかも「社会主義こそが自由をもたらす」という彼らの信念が、本人たちとしては偽りのない真剣なものであったこともまた疑いはない。だが、そうであればあるほど、彼らが「自由への道」だと約束したことが、実は「隷属への大いなる道」でしかなかったと実証された時の悲劇は、より深刻なものとなるのを避けられない。
『隷属への道」(F・A・ハイエク 春秋社)

ハイエクから見れば左派リベラルはリベラルではないということになるけれども、左派リベラルからすれば自分たちは自由を目指していると本気で信じているわけで、ハイエクの方こそ真の自由主義者ではないということになるだろう。


で、これも前に書いたけれど「自由」は「からの自由」と「への自由」の二つに大きく分けられる。「からの自由」は国家権力などの介入への自由であって、保守やリバタリアニズムがこれに該当する、「保守」と「リバタリアニズム」の違いは、保守は権力の介入に対しての防波堤として中間共同体や慣習など重視するのに対し、リバタリアニズムの大勢は中間共同体や慣習からも自由であろうとするという点。「への自由」は国家権力や理性といったものによって理念上の自由を手にしようとする考え。民主社会主義社会主義共産主義もこれ。


※ なお右派リベラルにも「自由でいたい」というより「人間は自由であるべき」という理念による強制性がある場合があるので、そういう点では右派リベラルと左派リベラルにも共通点があるとは思う。


俺からすれば、ネット上でよくみかける「共産主義はリベラルではない」という言葉こそ奇妙な主張だと思う。共産主義共産主義で自由を目指しているのだ。

プロレタリアートブルジョワジーから政治権力を奪取し、生産手段などの資本を社会全体の財産に変えることによって、社会の発展がすすむにつれて、階級対立も、諸階級の存在も、階級支配のための政治権力も消滅し、一人一人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となるような協同社会がおとずれるとした[4]。

マルクス主義 - Wikipedia

イデオロギーが異なる人間から見れば、とてもそうは見えなくても、彼らの理論上ではそうなっているということは認める必要があるだろう。そうしなければ批判するにしても的確な批判ができなくなると思う。


※ もちろん北朝鮮も理論上は「自由」や「民主主義」を掲げているのであり、それを「タテマエ」と考えて理解するのは間違ってると思う。むしろ「自由」や「民主主義」とは何かの考え方次第であのような国家ができてしまうのだと考えるべき。