保守とリベラルの違い

そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。 - デマこいてんじゃねえ!

あなたは「社会」と「個人」のどちらを大切だと考えますか?

有史以来、これは神話や戯曲に繰り返し選ばれてきたテーマです。人は1人では生きていけません。生存には「社会」が必須です。しかし社会の目的が、個人の目的と一致するとは限りません。社会の繁栄のために、個人の自由はどこまで犠牲にできるのか。これが政治的立場を計るための最初の軸になりそうです。

そもそも「社会の繁栄のために、個人の自由はどこまで犠牲にできるのか」という指標を用いて政治的立場を区分するのが左翼・リベラルである。


保守とリベラルでは

人は1人では生きていけません。生存には「社会」が必須です。

の捉えかたが違うのだ。


保守から見れば「完全に自由な個人」というものはあり得ない。あり得ないものを追い求めることがむしろ自由を破壊することになるのだ。保守は「社会の繁栄のために」個人の自由を犠牲にせよなどと主張しているのではない。自由のために共同体を尊重せよと主張しているのだ。


一方、左翼・リベラルとは「完全に自由な個人」は理念であり実現不可能かもしれないけれど、それでもそこに一歩でも近付くことを目指す思想である。保守からみればそれこそが自由を破壊することに繋がるのだが左翼・リベラルはそう考えない。したがって左翼・リベラルの目で保守をみれば社会のために個人の自由を軽視する思想というように見えてしまうのだ。


勘違いしてはいけない。保守もリベラルも「自由のための思想」なのだ。だがお互いの思想の違いから、一方にとってもう一方は「自由のためどころか自由を犠牲にする思想」だと受け止められるということだ。


それが如実に現れているのが「リベラル」だ。よく知られているように「リベラル」には小さな政府を良しとする古典的自由主義新自由主義と、国家による積極的な介入を主張するソーシャルリベラリズムがある。「完全に自由な個人」を目指すのであれば本来的には国家が個人に介入することは極力避けられるべきである。しかしそのような放任主義では個人の自由をかえって阻害するとするのがソーシャルリベラリズムである。


客観的にみればどちらも「自由のための思想」であり、口では自由を唱えながら内心では逆のことを考えているというわけではない。しかし一方の立場にいれば、もう一方は到底「自由のための思想」には見えないということになる。そのためにソーシャルの立場にいる人が新自由主義的主張に対して「金持ちを優遇するためだ」というような陰謀論的な批判をすることになる。


一方、ソーシャルの方は、本人達は自覚していないかもしれないけれどイデオロギー的には「個人=社会」という概念が基本にある。実のところ「社会の繁栄のために」というのは左翼的な考えである。ガチな左翼思想では「社会の繁栄=個人の幸福」であり、そのために個人を犠牲にすることは全く問題がないのだ。というか、それが「犠牲」だというのは外部からの視点であって、そもそもそれは「犠牲」ではなく「奉仕」であり「社会=個人」であるから、「奉仕」は苦役ではなく喜びであり、奉仕をすることこそが「個人の自由」の実現なのだ(実現するための手段という意味ではなく、奉仕するということそのものがという意味)。


それって戦時中の日本のことじゃないか、それは左翼ではなく右翼ではないかと思う人がいるかもしれないが、まさにその通りで、日本で言う右翼は実は左翼的思想の影響をバリバリ受けているのである。