政治哲学におけるリベラルとは、機会平等と最小不幸という公正さを実現するため、政府が積極的に介入し、富の分配や環境保護などを行うべきだという考え方だ。つまりは「○○からの自由」ではなく、「○○する自由」を実現させようという自由主義が、現代のリベラリズムである。
⇒佐々木俊尚『日本のリベラルが「本当のリベラル」になる日はくるのか』 | BRAVE NEWS | 現代ビジネス [講談社]
佐々木氏わかってるじゃん。じゃあ何でわけのわからないこと言ってるんだろう?日本の左翼も再分配主張してるでしょうに。
で、前のページみると
実のところ日本のリベラル勢力はこうしたマイノリティ憑依的な弱者の立ち位置によって社会を批判する人たちであり、その軸となっているのは「絶対の善である庶民」対「絶対の悪である権力」といった水戸黄門的な勧善懲悪論だ。これはそもそも、政治哲学的な意味での「リベラル」ではない。
⇒佐々木俊尚『日本のリベラルが「本当のリベラル」になる日はくるのか』 | BRAVE NEWS | 現代ビジネス [講談社]
なんてこと書いてる。
しかし、当然のことながらリベラルとは経済に限ったことではない。というか上に「環境保護」って書いてるからそれも理解してると思うんだけど何でや…
マイノリティが差別されてる、平等に扱われていない、圧迫されてる、と考えれば、それは「自由が損なわれている」ということであり、それを是正するために政府が積極的に介入すべきということになるのは左派リベラルとして当然のことであろう。ましてや政府自らが自由を損なうことに積極的に加担していると考えれば、政府を批判するのは至極当たり前のことである。それは別に日本に限ったことではない。
俺は左派リベラルではない、というか批判的な立場だけれども、左派リベラルの行動原理がどういうものであるのかちゃんと理解できなければ批判することができない。佐々木氏がリベラルではないと指摘していることは、左派リベラルど真ん中のことであって、全く同意することができない。
なお
「○○からの自由」ではなく、「○○する自由」を実現させようという自由主義
について。
ジャコバン派の賞賛する自由は、本質的に、国民共同体としての人民の自由であることをバークは確信していた。すなわち、この一枚岩的共同体をなんらかの形で制限もしくは条件づけようとする、貴族階級や王政派をはじめとするすべての集団に反対する人民の自由である、というのである。最高の自由は「からの自由」ではなく、むしろ「への自由」、つまり一個人自身よりも大きななんらかの共同体ないし目的へ参加することにあるというわけだ。これは『社会契約論』におけるルソーの革命的な自由論の核心であった。ルソーは、人は自由なものとして生まれたにもかかわらず、いたるところで鎖につながれている、と力強く宣言し、未来の革命家と改革者にこの鉄鎖の打破を訴えると同時に、それよりも精緻だが、それよりも強力な別の主張をも展開した。真の自由は、個人の自我と、もろもろの権利を含む全所有物を絶対的共同体へ全面的に譲渡することにあるという主張である。これこそ、ルソーからレーニンに至る本質的に集団主義的 ― あるいは共同体的 ― な真の自由についての解釈であった。
『保守主義 ― 夢と現実』(ロバート・ニスベット)
結局のところ、ルソー的な「自由」は「人民」という単一の共同体における絶対的な正義を元に善悪を規定する集団主義に陥る傾向があり、佐々木氏が「リベラル」と認めている思想と、佐々木氏が「リベラル」ではないと批判している
「絶対の善である庶民」対「絶対の悪である権力」といった水戸黄門的な勧善懲悪論
とは同じ思想からきているものなのである。