特集:リベラルとはなにか

特集:リベラルとはなにか / 荻上チキ責任編集 α-Synodos vol.202+203 | SYNODOS -シノドス-

たしかに統治によって達成されるべき目標は私人のそれぞれの権利と利益です。しかし、それらの目標は必ずしも統治によって達成されなければならないというわけではない。社会契約に参加せずに単独での自力救済に恃む者がいても構わないのです。

何を言いたいかといえば、リベラリズムは個人の自己決定論の自然な延長線上に出来上がる立場ではない、ということです。個人の立場に即するならば、自己の自由を守るために、他人と協力し、折り合いをつける必要は必ずしもないのです。……つづきはα-Synodos vol.202+203で!

「つづきはα-Synodos vol.202+203で!」ということで金を払わなければつづきが見えないのだが、金を払う気はない。


「自己の自由を守るために、他人と協力し、折り合いをつける必要は必ずしもないのです」というけれど、そんなことは孤島に1人で自給自足生活をするという空想上の助教でなければ不可能。だから「必要は必ずしもないのです」ではなくて「不可能です」でしょう。まあ「他人と協力し」の部分がミソなのかもしれないけれど、なかなか理解しにくいでしょう。


「人は必ず他人と折り合いをつけなければならない」


その折り合いをどうつけるのかで、保守や古典的自由主義や左派リベラル等といった異なる思想がある。


古典的自由主義(右派リベラル・リバタリアニズムとも)は、その折り合いを「市場」でつけることを良しとする。「市場」は株式市場や青果市場といったものだけではなく、我々の日々の行動が市場なのであって、物質的なことだけでなく、感情的なものも含まれる。何が善で何が悪かといったものでさえ、人々の感情の折り合いで形成される(ただし基本的人権のようなものは、それにあらずというのが一般的)。他人と直接話し合って決めるものではないから「協力し」ではないかもしれないけれど、「(無意識の)協力」と表現することができないというものでもないと思う。


保守もある意味「市場主義」。ただし保守の場合は現在生きている人間だけでなくて過去の人間も加える。伝統とか慣習といったものは過去に生きた人々の「折り合い」によって形成され、歴史という市場によって淘汰され生き残ってきたもの。チェスタトンの言う「死者の民主主義」。なお右派リベラリズムにも様々なものがあり保守に近いものも無くはないが、主流派はこれを考慮しないで伝統や慣習など自由の敵だと思ってると思う。


一方、左派リベラルは「理念」を至上価値とする。「人はこうあるべきだ」という理念が先にあって、その理念を達成することが最終目標。なおその「理念」はどのようにして形成されたのか?結局のところそれも伝統によって形成された「常識」によって作られたものではないか?という疑問は当然出てくるが「理念」はそのようなものから切り離された独立した絶対的なものとして通常理解される。それは絶対的なものであるゆえに、理念によって良いものとされるものは個人にとっても良いものである。したがって指導者がその理念を理解し実行するのなら、同時にそれは個人の総体である国民の意志を実行していることになる。そんなことは求めてないという反発があるかもしれないが、それは「私欲」であり、ここでいう国民の意志とは「社会の全ての人に共有される意志」すなわち一般意志のことである。だから一般意志に反する異論になど耳を傾ける必要はない。その一般意志というのが、何であるかどのようにしてわかるのかというと、市場によるものでなく、理性でわかるらしい(その仕組みは謎に包まれている。おそらく国民の意志が直接脳内に語り掛けるのだろう)。世論調査や投票と一致する場合はそれを利用するが、一致しない場合は一般意志こをが本当の国民の意志なので尊重しない。
一般意志 - Wikipedia


もちろん現在では様々な批判と現実に起こった悲劇により、これをあからさまに言う人は少ないし、これをガチに信奉している人も少ない(のかもしれない)。しかし根底にこの思想があるのは、現在起きている様々なことでもこれで理解すれば腑に落ちることが多いということでもわかる。