曽野綾子氏の件で思うこと

曽野綾子氏が『新潮45』にて、産経コラムの一件を「愚痴」っていた - 荻上式BLOG


曽野氏はコラムで

「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住区だけは別にした方がいい」

と主張した。曽野氏によれば、国に人種隔離政策をしろと主張したものではないということであり、確かにそう読むことはできる。しかしそうであってもこの主張は取り扱いを慎重にしなければならない可燃性の危険物であることに疑いない。どんなに慎重に扱ったとしてもまず間違いなくボヤは発生するだろう。にもかかわらず、そこに南アフリカアパルトヘイトを絡めてくれば大炎上するに決まってる


まあ、手法としてはわざと炎上しそうなこと書いといて、批判されたら「ちゃんと読めばそんなこと書いてないのにイチャモンをつけてきた。だから○○はダメなのだ」と「敵」を逆にやりこめるなんてのもあるだろうけど、そういう場合は批判される前にどんな批判がくるのか予想して、それに対する反論を用意しておくものである。


しかし、曽野氏の場合はそんな風には見えないのであり、炎上することを予想していなかったように思われる。さらに今でもどうして炎上しているのか理解できてないのだと思われ、反論もなんかずれている。


だけどこの程度のことが予想できないというのは世間知らずにも程がある。曽野氏は「保守(俺の考える保守ではないが)」の論者ということになっているから、当然リベラル側から今までも何度も何度も批判があったはずだ。だから批判慣れしているはずで、こういうことを言ったらこういう批判があるみたいなことは予想できるはずではないか?


このところが俺は理解に苦しむのである。一応可能性を考えれば、曽野氏は今まで自分に対する批判を無視してきたのではないだろうか?反論しないだけでなく、批判を検証して誤りがあったら直そうと心がけるどころか、(心の中で)自分の主張の方が正しいんだとする自己正当化すらしていなかったのではないか?気になるのは荻上氏の記事にある「たかが」というキーワードだ。曽野氏はこの「たかが」で自己が発した言葉の責任を放棄しているように思われる。


で、このあたり俺には曽野綾子氏と内田樹氏は似ているのではないかと思うのである。
論争嫌い (内田樹の研究室)
この記事で内田氏が表明しているような考えを曽野氏も持っているのではないかと。まあ心臓に生えてる毛は内田氏の方が多いように思えるが。

※ 何が問題なのか一応書いとくと、論争が最終的に決着しないことがわかっていたとしても、だからといって最初から放棄することを正当化するものではないということ。