ライオンと曽野綾子氏の言葉は理解可能か?

曽野綾子氏のコラム問題はまだ終息していないようだ。
BSフジ プライムニュース『曽野綾子氏×南ア大使 移民コラム反響と真意』 - Togetterまとめ


さて、先日の荻上チキ氏の番組
2015年02月17日(火)「曽野綾子氏のコラムが波紋、改めて考えるアパルトヘイト」(直撃モード) - 荻上チキ・Session-22


※ 書き起こしもあるんだけれど、これは荻上氏と曽野氏の対談部分だけ。
荻上チキによる曽野綾子氏へのインタービュー書き起こし - さかなの目


ゲストの白戸圭一氏の発言が興味深い。ちょっと長いけれど書き起こしてみた。

そうですね、今インタビューを拝聴した限りにおいては、曽野さんは差別は考えられないとおっしゃているので、差別をしないという考えの方なんだという風に受け取ったんですね。ただ、色眼鏡なしで、全く誰かが、どこの誰が書いたか文章か関係なくですね、この最初のコラムをぱっと読んだ時の感想は、論理の構成が、アパルトヘイトがありました。アパルトヘイトというのは人種別の居住を定めた体制であったと、それがなくなって一緒に住むようになったらうまくいかなくなった。したがって別に住んだ方がいいというというのが私の考え、大雑把に言えば論理構成はそういう構成なので、ぱっと読んだときには、ああやっぱりそのアパルトヘイトのような人種別のなんというのかな政策、居住政策がですね、いいというにお考えなんだなという風に、私もこの曽野さんを批判している方達と同じようにとりましたね。

あともう一つ、日本アフリカ学会の方々がですね、有志の方ですけど、が出しておられる要望書、私のところにも送ってきてくださったんで、読ましたいただいたんですけど、この中に一つやっぱり興味深いなと思ったとこがありまして、日本を除く国際社会では、アパルトヘイトは良かったという趣旨の言葉を活字にしただけで、ホロコースト、これはナチスによるユダヤ人の大量虐殺ですけども、ホロコーストは良かったと主張するのと同種、同じ種類のことであると受け取められ、厳しい社会的制裁を受けることになると。閉ざされた日本の言論空間では日本語で言いっぱなしになってしまうようなことも認められないんだというようなことが書いておられるんですけども、これはこの問題を考える際の一つのポイントかもしれないと思ってまして、どうしても、日本語の独自性というか特殊性みたいなものがあって、英語やフランス語、アフリカの人達そういう旧宗主国の言葉をしゃべるわけですけども、英語やフランス語で発言するときと、日本語で発言するときと、聞いている人の対象は全く変わってくるわけですね。私も英語で文章を書いたり、英語で話をしたりするときのほうが、変な話なんですけど、より緊張感を強いられる、今日本語で話していても、今私の話していることが、そうした言語に翻訳されたときにですね、日本人以外の人達もその発言を聞いたときに納得してもらえるか、あるいは論理的と感じてもらえるか、妥当性があると思ってもらえるかってこと、意識して発言するというのは、公の文章とかですね、発言は必要なんだけども、日本語のインターネット空間、ツイッターにしてもブログにしても、やっぱりそこはですね、あんまり意識されていない、しょうがないんですけど、そういう言語環境ですから、日本人が置かれている環境は、ちょっとそういう問題がこのコラムを読んだ時には感じましたね。

日本語で発言したときと、それが他の言語に翻訳されたときで、受け取られ方が変わってしまうという話。それはなぜかといえば、単に翻訳の問題ではない。日本語を使うのは主に日本人であって、日本人の間でだけ通用する共通認識がある(「空気」と呼んでもいいだろう)。それは日本の風土で培われたものだ。他の言語には他の言語の共通認識がある。もちろん英語圏やフランス語圏の中にも多様な人がいるだろうけれど、共通の言語があればある程度の共通認識ができるのが自然というものだろう。


で、ここで語られているのは日本語と他の言語の問題だけれど、実は我々と曽野綾子氏との間にもこの言語空間の問題が存在するのだろうと思う。


同じ日本語を使っているのにもかかわらず、多くの人は曽野氏の発言が、白戸圭一氏がぱっと読んで受け取ったのと同じくアパルトヘイト政策を肯定しているのだと受け取った。ところが曽野氏はそうではないと言う。しかし、そう言われてもなお曽野氏の真意がわからない。


ウィトゲンシュタインという哲学者の言葉に
If a lion could talk we could not understand him(もしライオンが話すことができたとしても、我々には彼の言うことが理解できないだろう)
というのがあるという。ライオンと人間はあまりにも隔絶した存在であるために、ライオンが人間の言葉で我々に語りかけても、彼が何を言おうとしているのか人間には理解不可能なのだ。


曽野氏の発言は我々にとってはライオンが日本語で語りかけてくるようなものであり、氏が何を言いたいのか理解に苦しむものなのである。