10年前から変わらない朝日新聞

10年前の2005年はブログ利用者数が急増した年で俺が始めたのも2005年から。そして2005年は「ネット右翼」という言葉が認知されだした年でもある。「ネット右翼」という言葉自体は以前からあったけれど、基本は文字通りネットで右翼的な主張をする人という意味であったと思われ(ただし「右翼」の定義は左翼を批判する人というかなり広い範囲であったと思う)。


ネット右翼」という言葉の定義は今でも定かでないが、当時も定まってはいなかった。しかし朝日新聞の使う「ネット右翼」の定義は、ブログ等のコメント欄に批判が殺到して炎上したときに、コメントを書いた人のことであった。この定義だと左翼であっても「ネット右翼」になるわけだが、取り上げられる事例が左翼的な主張をしている(朝日的には普通の一般人の主張ということなんだろうが)ブログが攻撃されているというものだから「ネット右翼」で問題ないんだろう。なおこの時期の炎上事例として著名なのが朝日記者が匿名(ばれたけれど)で書いたブログが炎上したものであった。


で、ブログの炎上というものが問題視されたわけだが、コメント欄がある以上は批判のコメントがあるのは自然なことである。批判が殺到すれば書いた方は気が滅入るかもしれないが、書いた方は批判すべきことがあるから書いたまでである。批判コメントが大量にあるのは批判したい人が大量にいるからであって、別に集団でブログ主を攻撃してへこませてやろうと談合してやっているわけではない(そういう事例が全く無いとはいえないが)。個人個人が批判コメントを書いた結果として大量の批判コメントが集中したというだけのことだ。しかも大量といっても当時はたかが十数人も批判する人がいれば炎上と言われたのであった。


ブログ主はそれが嫌だったら「批判コメントお断り」と宣言すればよいし、それでも批判があるなら削除すればいい。コメント欄を閉じることだって可能だ。それをしないのは、自分は批判も受け入れる寛容な人間だという立場を維持したいからにすぎない。にもかかわらず批判がくるのを問題視するのは「自分の意見に批判がくるはずがない、批判しているやつらは悪意を持ったやつらなのだ」という不思議な思いこみがあるからにすぎない。もしそれが「地球は丸い」というような意見だったとしても、「地球は四角だ」と思っている人が世の中にいはいるかもしれないので批判コメントが来ることは避けられない。ましてや世論が割れているようなことに対しては批判コメントが十数件どころか何千何万件あったとしてもおかしくはない(実際には記事を読んだ人の一部しかコメントしないからそうはならないが)。


「自分に言論の自由があるのだったら他人にも言論の自由がある」というそれだけのことだ。


繰り返し引用するが
政権批判の自粛「社会に広がる」 1200人が声明:朝日新聞デジタル

 元経済産業官僚の古賀茂明さんは「いまは相当危機的な状況に至っている」。1月下旬、コメンテーターとして出演するテレビ朝日の番組で人質事件に絡み「アイ・アム・ノット・アベ」と話したところ、ネット上で「政権批判をするな」などの非難が殺到。神奈川県警から自宅周辺の警備強化を打診されたという。声明では、「物言えぬ空気」が70年前の戦争による破滅へ向かった、と指摘している。

自分は安倍氏を批判しておいて、他人は自分を批判してはならないなんてことがあるものか。批判したい人は批判したいから批判したまでである。


ましてやこの場合の「殺到」とはブログ炎上とは違って、コメント欄に集中してなされたものではない。各自がそれぞれにネットで批判したというだけのことではないか。


批判が多くたって自分が正しいと思っているのならいいではないか。もちろん暴力に訴えるのは良くないが、批判されただけで「物言えぬ空気」と感じるとしたら、そっちがおかしいのである


※なお「政権批判をするな」で検索しても「政権批判をするな批判」ばかりヒットする。つまり実際になされた批判は、もっと具体的な批判がなされているのを、自分に不当な弾圧がなされているということを主張したいために都合良く要約したということだろう。


※某掲示板を見ても、「この掲示板では言いたいことが言えない」とか書いてあって「おまえ書いてるじゃん」みたいなツッコミがあるのはよく見かけるし。