炎上と2ゲット

俺はコメント欄を開放している限り炎上は誰にでも起こりうることだと思う。
もちろん炎上を起こさないよう工夫することは可能だと思うけど完璧じゃない。自分のブログが炎上してないのは「幸運」だと考えたほうがいいと思う。だって、たかがコメント数が1000程度、あるいは100超えたくらいで「炎上」なんだから。
日本の、場合によっては世界中のネット利用者の数を考えた場合、その中の極一部が批判的なコメントを書けば「炎上」なんだから、こんな現象が、稀少なものではなくて、むしろ日常的に起り得ると考えたほうが良いと思う。炎上に参加した「一部の心無い」人間を批判することは可能だが、何千万、何億の人間がいる中での数十人、数百人のことだ。彼らを批判して、(そうなるとは思えないが)仮に彼らが説得されたとしても、それで炎上がなくなるとは思えない。


それに、その数十人、数百人の後ろには、さらにその何倍もの(コメントを書きたいと思っている)人間が控えていると思う。彼らがなぜ炎上に参加しないのか?それはすでに炎上しているからだと思う。炎上してもなお書き込む人と、炎上したら書き込まない人がいる。炎上したら書き込まない人は、炎上していなかったら書き込んだかも知れないから、それで結局「炎上」すると思う。彼らが書き込まないのはすでに書き込まれているから。すでに同様のことが書かれているのに、同じことを書いてもしょうがないと思うからだろう。前に書かれているにもかかわらず同じことを書く人達が、炎上の参加者だ。ブログ主だけでなく、読者にとってもわずらわしい。


彼らはなぜ「既出」のことを書くのだろう?「数の力」で相手を黙らせようとしているのだろうか?そういう意見は多い。しかし、そうとばかりも言えない気がする。記事を読んだら何かしらの感想を持つ。それでコメント欄に何か書いてみたいという欲求が生じる。ところが、すでに「先客」がいる。その場合、先客がいるのだからやめようと思う人もいるが、そう思わない人もいる。あくまでも自身のメッセージを残したいと考える人達だ。


実のところ、最初に書いた人だけが、書く資格があるとするなら、炎上しそうなブログに常にアンテナを張っていなければいけない。過疎ブログでならそれは簡単だが、誰もが注目するブログ、コメントを残したいと思うブログの場合は競争率が高い。それを目ざとく見つけて最初に書くことができるのは時間に余裕のある人だけだ。博覧会やコンサートの一番乗りと同じだ。暇人が圧倒的に有利だ。そうでない人は、既出のことを書けないとしたら、幸運でも無い限り永久にコメントを書くことができない。


2ちゃんねる」系の掲示板では、「2ゲット」という書き込みがよく見られる。レス番号の2番目に書き込んだという意味だ。俺はゲットしようと思ったこともないし、ゲットしたことも一回もない。これは、新規にスレッドが立つのを監視していなければ、なかなかできることではない。もちろん狙ったからといって必ず2ゲットできるわけではないので、レス番3とか4に「2ゲット」と書かれている場合も多い。しかし、レス番100とか200に「2ゲット」と書くことは、いくら「2ゲット」と書きたいと思っても、さすがにそれは、ネタとしては有り得るけど、滅多にない。スレッドが立つのをひたすら監視して何回もチャレンジするか、それともあきらめるかの選択肢しかない。しかし、ブログのコメント欄は、いくら同様のコメントが既にいっぱいあっても、「2ゲット」のように時間がたったら不自然ということがない。


「2ゲット」は誰かがそれを書けば、自分が書かなくてもいいという性質のものではない。自分がゲットすることに意味がある。2ちゃんねるは匿名であるので、誰がゲットしたのかは通常自分だけにしかわからないはずであるが、それでもこだわる人がいる。ブログのコメント欄を単にブログ主に対するメッセージとすれば、同じことを書くのは無意味であるが、自分がメッセージを発するということを主目的とすれば、同じことを書いたとしても無意味ではない。


これはネット上では奇妙なことに見えるかもしれないが、日常生活ではよくあることだ。朝、誰かが「おはよう」と言ったからといって、自分は言わなくていいなんてことはむしろ有り得ない。結婚式や誕生日のお祝いや葬式のお悔やみの言葉も同様である。自分がメッセージを発するということに意味があるのだ。


つまりここに(大雑把に言って)二種類の立場があるということだ。
一つはブログ主に、違う考えもあるのだということを知らせたい、あるいは考えを変更してもらいたいというような、ブログ主中心の立場の人。彼は類似の指摘がすでにあれば同じことは書かない。既出のことに付け加えるべきことがあれば書き込む。あるいは他人から見れば同じに見えるけれども、本人の意識としては違うことを書いているつもりである。あるいはブログ主に反応が無ければ既出と断って書く。あるいは多くの人が指摘するように「数の力」で考えを変えさせようとしている。(あるいはブログ主に対してではなくて、読者に対して、迂闊に信用してはいけないと注意を促がすためのものもあるだろう。)


もう一つは、自分のメッセージを伝えたいと考える人。あくまでも自分のメッセージは自分のメッセージであって、他人のメッセージで置き換えられるものではない。だから既出であっても気にならない。ここでの彼の意識は「一人(ブログ主)対多数(コメンテーター)」ではなく、「一人(ブログ主)対一人(自分)」、または「一人(自分)対多数(ブログ主と読者)」の世界である。


そういうのを一まとめにして論評するのは無理があると思う。