火中の栗を拾う

〔猿におだてられた猫が火の中の栗を拾い、大やけどしたというラ=フォンテーヌの寓話に基づく、フランスの諺から〕他人の利益のために危険を冒す。

(「goo 辞書」)より



この諺にあてはまらないかもしれないけど、タイトル他に思いつかなかったので…


ガリレオは地動説を唱えたが、反発を招いた。後世の我々はガリレオが正しかったことを知っている。だが、当時は天動説を信じるほうが主流であった。昔からそう考えられていたとか、宗教上の理由からとか、あるいは科学的な理由からそう考えられていたのだろう。
ガリレオは地動説を唱えれば、反発を招くことを予想できなかったのであろうか?そんなことはないと思う。それでも彼は地動説を唱えた。
その動機を俺は知らない。だが、一つだけ言えるのは、俺が今、地動説を唱えたところで、「それがどうした?」という反応が返ってくるだけであるということだけは確実だということだ。ガリレオは地動説が常識でなかった時代に地動説を唱えた。それで歴史に名をとどめている。俺が今、地動説を唱えても、数秒後には忘れ去られる。
歴史に名をとどめるとまではいかなくても、記憶に残るようなことを言いたければ、ありきたりのことを言っていてはだめだ。人が思いつかないようなことを言わなければならない。そして、言ったからには、ありきたりのことでないのだから、反発を招くだろうと覚悟しなければならない。


もちろん、「ありきたりでない」言説が正しいということにはならない。むしろ間違っている方が多い。トンデモさんは、反発を招くと、それは自分の優れた言説が不当な迫害に遭っていると批判するというパターンが多い。人と違う主張をしたら、反発を招くのは当然であって、それでも自分の主張が正しいと思うなら、批判者を説得する努力をしなければならない。新奇な主張が簡単に認められていたら、世の中大混乱に陥る。


さて、例の元アナのブログであるが、多くの人の反発を招いた。彼女の主張が正しいか正しくないかは、ここでは問わない。ただし、彼女の主張と異なる意見を持つ人が少なからずいるというのだけは事実である。そして、彼女のプロフィールと、時期的なものを考えたとき、批判的なコメントが多数書き込まれるだろうということは容易に予想がつく。もし予想がつかなかったのだとしたら、それは大変不思議なことだと思うということは前に書いた。これは正しいとか正しくないとかの問題ではない。正しいことを言えば、批判がこないなんてことはない。正しいと思わない人がいれば批判はくるのである。地動説の話に戻せば、今現在でも地動説は誤りだと思っている人もいるかもしれない。「地動説は間違っている。訂正しろ」という批判がくる可能性も実はゼロではない。


誰もが読むことのできるブログという媒体で発言すれば、どんな発言をしようと、思わぬ方向から批判がくるかもしれないという覚悟が必要である。世の中にはいろいろな人がいるのである。ましてや大勢の人が注目している事、意見が割れている事、あるいは世間の常識と異なる主張に関しては尚更である。


批判が嫌なら最初から言わないほうが身のためである。批判がくることが予想できても言う価値があると思うのなら言えばよい。批判があればあるほど正しいと認められたときには価値がある。批判がこないと思うのは知恵が足りない。


批判がきたなら、反論するに値する批判なら反論すればよい。自分が間違っていたと思うなら認めればよい。反論するに及ばないと思えば、反論しないのも自由である(自分がそう思っていても、反論しないのは反論できないからだと思う人がいるかもしれない。それが嫌なら反論すればよい。それでも構わないと思うならしなければよい)。コメントに対応する余裕がないなら対応しなければよい(同上)。コメント欄を閉鎖するのも自由である(その行為がどう見られるかを考えて、それでも構わないなら閉鎖すればよい)。これらの対応は、その人が決定することであって、他人が強制しようとしてもできることではない。よくブログを閉鎖させられたというようなことを言う人がいるが、ブログサービス側が強制的に閉鎖したとか、違法なプライバシー暴露とか脅迫とかなら話は別だが、それ以外はブロガーの意志によるものである。商業ブログとかは目的が違うから話は別かもしれないが、個人が自己の主張を発信するようなブログでは、たとえ何百、何千の批判コメントが寄せられようとも、自分の主張が正しいと信じ、続ける意志があるのなら、続けることはできる(もちろんそれがそのブロガーの主張が正しいということを意味するものではないが)。そこまでして続けたくないと思うのなら続けなければよい。全てその人の意志によるものである。