俺はその道の専門家ではないし、素人の中でも詳しいと自慢できるレベルの知識を持っているわけではない。そのことをあらかじめお断りしておきます。
ポール・ニューマンの『暴力脱獄』という映画だったか、刑務所で看守が囚人に穴掘りを命じて、穴掘りが終ったら、今度は埋めろと命令するという描写があったように思う。名作『地上より永遠に』では、フランク・シナトラが演じる兵士が同様の罰を与えられていたと思う。
穴を掘って、またそれを埋めるという行為を繰り返すことは、まったく無意味な行為である。何か目的があれば、それを励みにすることができるが、無意味な行動は苦痛である。この空しい行為を繰り返していくうちに、思考能力は麻痺し、場合によっては精神に異常をきたすこともあるかもしれない。刑罰としてそれを命じる場合、反抗的な態度をなくさせる、逆らっても無駄だということを叩き込む、上官・看守の命令に従順になることを期待しているのだと思われる。これを「洗脳」とか「マインドコントロール」と呼ぶのかよくわからないけど、人格を操作するには効き目がありそうだ。
で、「穴掘り刑」の話でなく、それと似ているなあと思うことを考えてみる。
例えば親が、子供が何かしたことに対して叱る。子供はこんなことをしたら叱られるということを学習する。それでどんなことをしたら誉められるんだろうと考え実行する。ところが、そうして実行したことが、案に相違して、また親に叱られる。前に叱られた原因を考えたら、今度のことは叱られるに値することではなく、むしろ誉められるはずのことである。ところが叱られた。理由は何なんだ?そこで子供はまた考える。おそらくこういうことではなかろうかという結論を出して実行する。ところがまたまた叱られる。そうやって繰り返していくうちに、子供は自分で考えて行動することをしなくなり、親の命令にひたすら従うだけの従順な子供になっていく。「親子」を、「教師と子供」」、「上司と部下」にしても良し。そして「教祖と信者」で考えてみるのも良し。
で、ここからが本題。
これはあくまで架空の話なんだけと、あるカリスマ性を持ったブロガーがいるとする。彼の記事は魅力的である。思考も論理的で頭が良い人であると思われる。彼の記事を愛読している人は多く、彼の言論は読者に影響を与え、ブログ界での世論形成の一翼を担っている。あくまで架空の話だ。
ここに彼の言論に納得のいかない人が現われる。といっても、別に彼を憎んでいるわけではなく、単に意見の相違を表明しただけである。彼は頭の良い人だから、自分の異論にも理解を示してくれるはずであろう。
ところが案に相違して、彼からは猛烈な反論が返ってくる。その人はとまどってしまう。まさかこんなことになろうとは。確かに彼と自分の意見は異なるが、だからといって、この批判は度を越している。自分に落ち度があったのではなかろうか?書き方がまずくて誤解されたのだろうか?それとも説明不足であったか?
そこで、その人は、今度は推敲に推敲を重ねて、自分の言いたいことが相手にちゃんと届くように念には念を入れて再反論を書く。相手は理解力のある人間だ。真っ当な批判なら同意しないまでも受け付けてはくれるはずだ。これでわかってくれるだろう。ところがやっぱり、いやそれ以上に激しい批判を浴びる。さっぱりわけがわからない。その人は大混乱に陥る。自分に落ち度があるとは思えない。でも彼は激怒している。批判されるのは構わないが、それにしても度を越していないか?何が彼の感情を害したのであろうか?挑発的だったかな?でも彼だって十分挑発的なんだけどな…
その人の目には彼の方がどうかしていると思える。大体彼の言っていることは一見もっともらしいが、前後を読むとお互いに矛盾しているじゃないか。彼のやっていることは、以前彼が批判してきたことと同じではないのか?それと今起きていることと何が違うというのか?彼は言行不一致であり、ダブルスタンダードである。彼の批判していることは、むしろ彼の行動にこそあてはまる。並の思考力があればそれくらいわかることではないか。ところが彼は、今でも別のところでは平然と模範的な言論をしていて、それに対する賛同も多く、信者も多い。それは確かに真っ当な言論だから、賛同されるだろう。だが、彼はそこでの言論とは相反する行動をしている。彼は二重人格か?天然か?それともこういう方法を熟知していて、何らかの目的のために実行しているのか?(ゲッベルスに傾倒しているという人もいたことだし、そういう人は他にもいるかもしれない)
昔、「 ああいえば上祐」という流行語があった。どんなことを言われても、それなりにもっともらしい反論を返すことができる能力を持った人は実在する。巧みな反論であるので、何かおかしいと感じたとしても、どこがおかしいのか具体的に指摘するのが難しい。巧みな言論で納得してしまう単純な信者がいるのは腹立たしい。だが短絡的に感情的な批判をすると、むしろこっちが悪者になってしまい、信者からも批判される。それどころか理解力の乏しい可哀相な人と同情されたりして…。「可哀相な人とはお前らのことだ」と言いたいところだが、それを言ったところで彼らは理解できず、むしろ彼らの信念は強固になり、むしろ結果的に「教祖」の手助けをすることになってしまう。
実のところ、俺はこういう事態にどう対処するのが最良なのかわからない。最良ではないだろうが、まあ余程重要なことでなければ、言いたいことを言って、あとはどんな反応があってもスルーするのが泥沼にはまらない方法ではなかろうかと思う。有名ブロガーと言ったところで、今のところ、思うほど影響力があるわけではないし。しかし、そうは言っても、そういう人が高い評価を受けてると(特にアルファブロガーからとか、はてなブックマークでとか)、そりゃおかしいだろと言いたくなるのも人の情。難しいね。
なお、以上のことは、今どこかで現実に起きているいくつかの出来事について書いたものではない(と逃げておく)。