ネットイナゴ(その1)

まだ使っている人は少ないが、「ネット右翼」に替わる用語として「ネットイナゴ」という用語を採用しようとする動きがある。


俺はかねてから「ネット右翼」という用語の定義は曖昧であり、又政治的右翼あるいは右寄りの意見を持つものだけでなく、左翼的な人達も同様のことをしており、さらに政治的なことに限ったことではない現象に参加している人間に対して「ネット右翼」という用語を使うのをやめたほうが良いと考えているので、別の用語ができるのは、その点では歓迎する。


さて、それを踏まえた上で「ネットイナゴ」という用語は代替語として相応しいものだろうかを考えてみる。
ネットイナゴ」とは「ブログのコメント欄に大量の批判・罵倒・侮辱を書き込む人々」(玄倉川の岸辺)であると定義されているらしい。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/fd11ac777d2ab60b2bbe2122fa26514d


注目すべき点は「批判」も含まれているところだ。批判であっても大量に集中することは良くないと考えているということだろう。この点が気になる。批判するだけなら良いではないか?


しかし、これは単に批判するだけの行為を指しているということでもないらしい。「相手の考えが変わるまでコメントを続ける者」ということなのだろう。それならわからなくもない。多様な考え方があるのに自分の考えを押し付けようとするのはよろしくない。そういう意味であるなら、しっかりと定義付けして、定義から外れないよう注意すべきだ。そうでないと単に批判が集中しただけで、それが批判の対象になってしまう。それはおかしい。


なぜなら、批判が集中してはいけないといっても、コメント欄に批判を書き込んではいけないというルールは少なくとも現時点では一般化したものではないからだ。ネットを日常的にしている人なら「炎上」に参加する方も、批判する方も「炎上」に関する知識がある。しかし、そうでない人なら、自分の意見と異なる主張に批判コメントを書いてみたいという衝動が自然に起きるのは異常でもなんでもないことだ。そんな人が数十人集まれば、それで「炎上」してしまう。ところが彼らにはそれがいけないことだなんて意識は全くないだろう。悪口等マナーの悪いことをしてはいけないというのは、常識ある人間なら普通に身につけていることだが、批判は良いが大量の批判はダメだというのであれば、どこに境界があるのか、それは「常識」ではわからない。近頃流行りの「明確化」(例:批判コメントが二桁になったらそれ以上は禁止とか)が必要だ。


それはそれとして、さらなる疑問がある。「相手が自分の言い分を理解してくれないので理解してくれるまでコメントを続ける者」というケースはどうなのだろう?例えば捕鯨に関する議論があったとする。捕鯨反対論を書いてあるブログに捕鯨賛成のコメントを書くとする。ここで捕鯨反対のブログ主が捕鯨賛成になるまでコメントを書き続けるとすれば「ネットイナゴ」に相当するだろう。ところがそうでなくて、捕鯨賛成の意見を書いたところ「あなたは鯨が滅ぶことを望んでいるのですね」なんて反応をしたとする。コメンテーターは「そんなことは一言も言っていない。それどころか捕鯨に賛成なんだから鯨が滅んだら困ってしまうのだ」と反論するのだが、相変わらず同じ答えが返ってくる。それでまた反論する…これは相手に自分の意見を押し付けようとしているのではなくて、誤解を解いて貰おうとして、又は第三者に自分が誤解されては困るので反論するということだ。


しかし、まあ、これも永久に決着がつきそうにないだろうから、ある程度反論したらあきらめるのが良かろうとは思う。ただし、この場合、最初にコメントしなければ、こんな目に遭わなかったとは言うものの、こんな事態に陥ることになろうとは、その時点では想像もつかないことも多いだろうから、これを「ネットイナゴ」なんて呼ぶのは可哀想な気もする。