『兼見卿記』の謎

ちょっと気になったので簡潔に。


『兼見卿記』天正10年には正本と別本がある。一般的には別本には都合の悪いことが書かれていたので書き直されたと言われてる。都合が悪かったはずなのに、なぜか廃棄されずに残っていて、両者を比較すればどの部分が都合が悪かったかわかるとみなされてる。


別本にあって正本にない記述に、天正10年6月7日に吉田兼見が安土に下向して光秀と面会したときに

今度謀反之存分雑談也

とある。これも上の論理だと都合が悪いので正本には書かれなかったということになろう。


だが「謀反」は大罪であり、明智光秀が自らの行動を「謀反」と表現することはおよそありえない。光秀書状では「討果」「相果」「誅」等が使われている。

よって「謀反」とは兼見側の表現であり、しかも中立的な表現ではなく、そこには光秀が悪事を行ったという意味が含まれているということになりはしないだろうか?

もし、この記述が兼見と光秀に面会した直後に書かれたものだとすれば、兼見はその時点で光秀の行為に好意的ではなかったことになり、ましてや共犯者ではありえないということになるのではないだろうか?


「謀反」と書いていることは不都合どころか好都合のことではないだろうか?


ただし日記は必ずしも当日または翌日に書かれるものではない。後日に書かれる場合もある。したがって別本が光秀滅亡後に書かれた可能性もあるのではないか?


だとすれば、なぜ正本があって、この部分が削られているのか?という問題が生ずる。しかし、その理由は必ずしも都合が悪かったからとは言えないのではないか?あるいは都合が悪かったとしても、どうして都合が悪かったのかといえば、無実でも疑われる面倒を避けたかったから程度のことだったのではないか。