近衛前久書状(石谷家文書)の解釈

なんか妙なことになってる。


とりあえず簡潔に


俺の解釈では

一昨年の冬、
安土城においていろいろと(わたくし前久のことを)悪し様に
信長に告げる者がいて
既に(わたくし前久が良くない者であるということに)決着した
ように
なっているところで、わたくし(前久)は信長へ、「長宗我部元親は(信長を)疎んじる気持ちは無いという趣」を申し伝えたところ
信長はさしあたり納得されました。

となる。つまり讒言されたのは元親ではなく前久。前久は窮地に陥っており、元親のために何かする状況では本来ないときに、あえて元親のために活動したということを述べているのだと思う。


「去々年(一昨年)」は天正9年のことと考えて間違いなく、前久は翌年2月2日に太政大臣に任官する。よって信長との仲が険悪だったわけではなかろうが、公家の中には前久を快く思わず、信長に悪評を伝えるものがあったのだろう。前久任官は『公卿補任』にのみ見え、その他の公家等の日記史料には記事がないという。