豊臣秀吉と「猿」(その4)

豊臣秀吉と「猿」(その3)の続き。


豊臣秀吉と「猿」の問題は秀吉研究にとってとても大きな問題だと思う。これをどう考えるかによって秀吉観は大きく変ってくるだろう。秀吉関連の本には必ずといっていいほど取り上げられているものの、本格的に論じられているようには思えない。もし、これを本格的に検証すれば、それだけで一冊の本になるだろう。


秀吉が幼少時に「猿」と呼ばれたとするのは事実か、それとも後世に作られた話なのか?それは単に秀吉のあだ名の問題ということにはならない。


幼少時に「猿」と呼ばれていなかったとすれば、「日吉」と呼ばれたことも当然疑わなければならない。猿は日吉山王権現の神獣なのだから。


また「秀吉」という名前についても考えてみる必要がある。「ひよし」と「ひでよし」に関係があるのか、ないのか。


秀吉と近江の関係についても考えてみる必要がある。秀吉の祖が近江から来たという伝説は多いが、それが「日吉・猿」からの連想であるかもしれないから。


秀吉と朝日の関係についても考えてみる必要がある。妻の母と妹が「朝日」であるのは偶然ではないだろう。ところが「日光山縁起」にも猿丸と朝日が出てくる。そして日光と比叡山は無関係ではない。


比叡山と日光の関係でいえば、徳川幕府の宗教政策にも関係してくる。日光東照宮の「三猿」は有名だが、これは比叡山と関係がある。豊臣の宗教政策と徳川の宗教政策の関係を考えなければならない。


秀吉の「日輪懐胎伝説」についても考えなければならない。歴史家は気付いていないかもしれないけれど「猿・日吉」と「日輪懐胎伝説」には宗教的に密接な関係がある


秀吉が幼少時に「猿」と呼ばれていたのか、それとも後世の後付けかによって、見方は大きく変ってくるはずだ。


もし後世の後付けだとして、一体誰がこの伝説を作ったのか?「秀吉が権威付けのために作った」みたいな安易な陰謀論を唱える学者もいるみたいだけれど、そんなに簡単に決め付けられるものではない。大体、そうであれば秀吉自身が日輪懐胎説は公言しているのに、「猿」について公言した記録が無いのはなぜかということが問題になるではないか。


この謎は簡単に答が出せるものではないだろう。それでも検証は欠かせないし、安易な結論を出すことは何の利益にもならないどころが害になると思う。