豊臣秀吉と「猿」(その3)

豊臣秀吉と「猿」(その2)の続き。


桑田忠親豊臣秀吉』(角川文庫)に『太閤素性記』の記述を元にして、、

こうなっては、太閤様も、まったく形なしだ。−猿かと思えば人、人かと思えば猿−では、ちょっとひどすぎる。が、秀吉にとってみれば、その猿面のために拾われたようなものだから、猿面さまさま、というところだろう。秀吉が、もし猿面をしていなかったら、クレオパトラの鼻の高さではないが、日本の歴史が一変していたかもしれないのである。

と書いている。


まず、言いたいのは俺は桑田忠親博士は偉大な学者だと思っているけれど、時々こういう(インテリにありがちな)お茶らけた物言いをするのがどうにも受け入れられない。それは秀吉に失礼だろうということではなくて、そういう表現をするときには、得てして論理的な思考がすっ飛んで隙が生じるというのを見てきたからだ。


さて、この主張の何が問題かというと、秀吉が「猿面」だと言っていることだ。


ところが『太閤素性記』では秀吉が猿面だなんて一言も書いてないのである。


『太閤素性記』では「幼名猿」とあるだけだ。秀吉の顔が猿に似ていると書いているのは『真書太閤記』や『絵本太閤記』だ。


「猿かと思えば人、人かと思えば猿」というのは、普通に読めば顔が猿面だから猿だということではない


『太閤素性記』には、

古き小袖を得、絹紬の衣装を得、沐浴などさせ、袴などを著する。然ば其形ち清らかにして始の形に異なり、

と書いてある。


綺麗な衣装を着て体を洗うと、どのような効果があって猿面が変化するのだろうか(漫画では眼鏡を取ると美少女になるというのがあるけれど)。


松下加兵衛が猿かと思ったのは、秀吉がみすぼらしい衣装で汚い格好をしていたからだ。と解釈するのが正しい「物語」の解釈だと思うがいかがだろうか?


しかし、一方で『太閤素性記』は「物語的・神話的要素」の強い話であるゆえ、ここでいう「猿」とは「猿に似た人間」というよりも「猿そのもの」として、すなわち「異形のもののけの類を想像して考察する必要もあると思うのである。


とにかく、秀吉の顔が猿面だという他所からの要素を安易に別の話に取り入れることは大いに問題だろう。