『太閤素性記』の類話(その9)

『太閤素性記』の類話(その8)の続き。


『太閤素性記』は歴史家が言うほど信用できるのか?


今まで書いてきた通り、『太閤素性記』の若き日の豊臣秀吉が家を出て浜松に行き、故郷に帰り織田信長に仕えたところまでの太閤伝説は、伝説的要素に満ち満ちており、伝説的要素を除けば、残るのは「秀吉が松下加兵衛という人物と何らかの関係がある」という部分だけだ。


そして、その松下加兵衛との関係も、既に小瀬甫庵の『太閤記』に記されていて知られているところのものだから、結局何も残らないのだ。


しかも、その松下加兵衛についても、

小和田氏は、当時の松下氏は久野城でなく頭陀寺城(静岡県浜松市)の城主であって、しかも之綱は秀吉と同い年の十五歳なので、この逸話の真実性は疑わしいとする。

藤田達生『秀吉神話をくつがえす』講談社

とある。だったら信用できないとすればいいものを、続けて、

そのうえで、秀吉が出会ったのは之綱ではなくその父親・長則であれば自然であるとして、之綱は長則の没後の天正十八年、北条氏攻撃の後に、秀吉から恩返しとして久野城一万六千石を与えられたのだと主張する。たしかに合理的な解釈である。正確な話をすると煩雑なので、単純化されて伝わったものかもしれない。

なんてことになっている。

(なお十五歳とあるのは『太閤素性記』に十六歳とあるのを、天文六年生まれが正しいとして修正しているのである)


神話・伝説の「合理的な解釈」は一見もっともらしくみえるけれど、実のところかなり怪しい解釈である場合が多い。


俺は松下加兵衛については、まだ調査不足でわからないことだらけだけれど、松下氏が久野城の城主でなかったのはそうだとしても、実のところ当時、頭陀寺城の城主であったのかも確かなことはわからないらしい。


秀吉と松下氏に関係があったとしても、伝説で言われるような関係ではなくて、もっと他の意味の関係があった可能性もあるだろう。


甫庵の太閤記には、

二十歳之比、遠江之国住人松下加兵衛尉と云し人に事(つか)へしが、他に異て用所を叶へ侍るに、

とある。


この話から秀吉が松下加兵衛の草履取りみたいな仕事をしていたと解釈したのが『太閤素性記』の伝説になったと思われる。しかし、必ずしもそういうことではないかもしれない(例えば秀吉は尾張在住の御用商人のような関係だったとか)。


尾張那古野城今川氏豊が城主だったことがある。秀吉が生まれた頃には既に織田信秀に奪われていたけれど、尾張中村の住人秀吉と今川氏を繋ぐ地盤があった可能性はある。


以上のように考えると、『太閤素性記』は歴史家が言うほど『太閤記』よりも信用できる史料だとは到底思えないし、『真書太閤記』や『絵本太閤記』も『太閤素性記』が信用できるという先入観から事の真偽を判断するのではなく、もっと素直に読めば、新たな発見があるかもしれないと思うのだ。