秀吉皇胤説を疑え (その2)

秀吉皇胤説を疑え(その1)の続き。


豊臣秀吉は本当に天皇落胤だと主張したのか。


次に前にも書いたけれど松永貞徳の『戴恩記』から。

ある時秀吉公いつも御参内の時。御装束めしかへらるゝ御やど施薬院にて曰く。我、尾州の民間より出たれば。草かるすべは知たれども、筆とる事は得知らず。元より、歌、連歌の道には、猶ほ遠しといへども、不慮に雲上の交をなす。但、わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりかに玉体に近付き奉りし事あり。その夜の夢に、いく千万のおはらひ箱、伊勢より播磨をさして、すき間なく、天上を飛行、又ちはやふる神の見てぐらてにとりて、と云ふ御夢想を感じて、吾々を懐胎しぬ。
(小和田哲生『豊臣秀吉中公新書

まず言いたいのは、どんな荒唐無稽な話であっても、とりあえず余計なことを考えずに素直に読んでみるべきだということ。それが歴史史料を読むときの常識ではないかと思うけれど、これが結構難しいらしい。実際まったく予断を交えずに読むということは不可能なのかもしれないけれど、それでもそういう心がけが必要でしょう。


話はちょっとずれるんだけれど、たとえばSF映画には、宇宙人が出てくる。それらはもちろん作り話だ。だけど作り話だからといっても何でもありというわけじゃなくて、ちゃんとその世界にはその世界なりの筋が通ってなければならない。矛盾があったり都合が良すぎる展開の話は面白くない。でもそういうことで不満を言うと「所詮作り話なんだから」という意見が出てくる。そういう楽しみ方があってもいいかもしれないけれど、そういう人は雰囲気を楽しんでいるんだろう。あるいは自分なりの解釈で納得しているんだろう。そういうのは俺とは相容れない人だなと思う。しかし、歴史史料でそういう心構えでいるととんでもない解釈をしてしまう恐れは大いにあると思う。



で、話を戻して上の『戴恩記』に戻ると、小和田氏は、

いつのころからか、秀吉はみずからの口で皇胤説を周囲にしゃべりはじめたらしいのである。

という。


ところが、俺は何度読み返しても、これが皇胤説だとは解釈できないのだ。


小和田氏は「玉体に近付き奉りし事」というのを性交渉のことだと思っているのだろうけれど、俺は文字通り天皇に近づいたこと」という解釈しかできない。


秀吉は母が「内裏のみづし所の下女」だったという。「下女」であって「官女」ではない。そんな下っ端な女性が天皇と契るというのは、全くありえないとは言わないが普通に考えれば荒唐無稽な話といえるだろう。


そもそもこれは荒唐無稽な話だから荒唐無稽がいくつあっても構わないとすれば、天皇と秀吉の母が一夜を共にしたということもありえるのかもしれない。だけれど、俺にはそうは全く思えないのだ。


秀吉の母は、秀吉によれば公卿の娘だけれども、娘として公認されたという話は存在しない。公卿の萩中納言と村娘の間にできた庶子であり、後の伝承によれば、母と娘は上洛したが、既に公卿は死んでいたということになっている(そもそも『戴恩記』にはそういう話すら載っていず、「尾州の民間」とあるのみだけど)。そういう娘が天皇と契るということは「物語」の中でもありえないと考えるべきだ。


それを踏まえて、秀吉が何と言っているかといえば、上に書いたように「玉体に近付き奉りし事」があったと言っているのだ。すなわち「天皇に近づいたこと」があったということだ。性交渉どころか体に触れてさえいないと思う。さらに言えば姿を見ていない可能性だってある。天皇の乗った駕籠か車を見たというだけかもしれない。


会社勤めをしていたからって社長の顔を直に見たことがない下っ端社員がいたっておかしくないのと同じことだ。支店長室に社長が来訪していて、その支店長室の近くにいたということでも「近付き奉り」と言ったって不自然じゃない。


そして「その夜の夢に」霊夢を見たのだ。たかが、それだけの接触霊夢など見るものかという疑問を持つ人もいるだろうけれど、俺は十分ありえると思うのだ。


当時の天皇は政治的権力はど無きに等しいものであったかもしれないけれども、霊的な権威は非常に高かったと思うからだ。フランシスコ・ザビエルは周防の山口で天皇が足を洗った盥を頭にかぶることをすすめられたという。また、天皇が書いた綸旨を庶民が見れば必ず祟りがあるとする史料もある(『キリシタンバテレン』岡田章雄)。たかが盥でさえ、それほど霊験あらたかなものだと考えられていたのだ。天皇のいる場所から50メートル、あるいは100メートル離れたところにいたって下女に霊夢を見させるくらいの力があった(と考えられていた)としたって、ちっともおかしなことではない。


(つづく)