図書館で山路愛山『豊臣秀吉』を見てたら、秀吉野合の子説が紹介されてた。
出典は『曲亭雑記』の「平豊小説弁」なので、近代デジタルライブラリーから書き起こし(ちなみに山路愛山の『豊太閤』も近代デジタルライブラリーにあった)。
或記に云。太閤秀吉公の父しれざるを以て牽強付会の説多し。それらハ今さら論ずるに足らず。伝に云。秀吉はその母野合の子也。そのいハけなかりし時。つれ子にして木下弥右衛門に嫁したるに。弥右衛門はやく世を去りければ。その頃織田家の茶坊主にて。筑阿弥といひしもの。浪人して近村にあるをもて。即これを入夫にしたり。この故に弥右衛門ハ秀吉の継父にして。筑阿弥ハ仮父也。母が野合の子なるをもて。実の父のことにおいてハ。その名をだにもいひ知らせず。秀吉も亦これを悟りて。われに父なしといハれしなり。もし弥右衛門にもせよ筑阿弥にもあれ。生の父ならんにハ。はや世を去りて年を経るとも。秀吉武運比類なく。富四海を保に至て。父の廟所を建立し。贈位贈官の追福あるべし。然るにその事なかりしハ。野合の子なればなりといへり。
「或記に云」ということで、滝沢馬琴はこれを「憶説」としている。
ところが俺はついこの前、
個人的には、伝説に反して、実は秀吉は父を知らないのかもしれないとも思う(弥助と竹阿弥が別人だったり、同一人物だったりと混乱してるのも、本当は弥助も実父ではなくて養父だったからなのかもしれない)。
⇒豊臣秀吉の父
と書いたばっかりだ。
父に関する宗教的な施設を作ったという話も聞かない。
とも書いた。今まで『曲亭雑記』を読んだこともなければ、そういう説を聞いた事もなく自分でそう思いついた。
同じ考えを持っている人が大昔に存在したということで、馬琴が「憶説」だとしているからといって、ああそうですかと納得するどころか、逆にやっぱりそうなのかもしれないと思うのであった。
※ところで、「或記に云」の「或記」の題名をなぜ馬琴は書かなかったのだろうか?山路愛山は「出所詳ならず」と書いているから確認されていないようだ。実は馬琴自身の「憶説」だったりして…