ウィキペディアによれば利康、利宗、三存、七兵衛という息子がいたという
⇒斎藤利三 - Wikipedia
利康は山崎の戦いで討死。
斎藤利宗。諱は利光とも。
⇒斎藤利宗 - Wikipedia
「斎藤宗利は春日局の兄」
⇒旗本寄合席 - Wikipedia
「利宗」と「宗利」は同一人物だろう。
三存は利産の5男。「みつなか」と読むそうだ。
⇒烈風伝 将士書上
こっちでは「みつなり」となっている。
⇒高知市歴史散歩
『治代普顕記』という史料によれば土産右衛門(つとうえもん)
「嫡子ハ肥後ヘ下(くだり)肥後守抱置斎藤立本と云二男と娘ハ土陽の長宗我部家に渡り娘は京都に忍ハセ次男ハ土佐へ下土産右衛門と号て土州朝倉といふ所に侍ける」
「斎藤立本」というのは「利宗・宗利」のこと。
天正10年(1582年)、山崎の戦いで兄の斎藤利康と共に羽柴秀吉軍の先方の高山右近と戦うが敗れたため、剃髪して立本と号し、降伏した。戦後、細川忠興に御預けとなった。間もなく秀吉に罪を許され、小牧・長久手の戦いに出陣し、騎馬で馳せ付け軍功を立てた。その後、還俗して加藤清正に仕え、肥後に5000石の知行を与えられた。
七兵衛は不明。