来秋

長宗我部元親書状(斎藤利三宛) 天正10年(1582)5月21日とされるものが天正9年のものではないかという指摘が高村さんからありました。


しかしながら「東州奉属平均砌」とあるからには、これはやはり天正10年のものではないかと俺は思います。ご承知のように天正10年2月に木曾義昌が織田方に寝返ったことにより甲州征伐が始まったわけで、天正9年時点では「東州奉属平均」が近い将来のことなのか、ずっと先のことなのか予測不可能であろうと思います。


ところが、そうすると元親が「来秋調法を以申上」と言っているのが、四国征伐が間近だというのに随分のんびりしたものだという印象があり、それがこの文書が天正9年のものではないかと考える根拠になるのでしょう。なお「来秋」とは現代の日本語感覚では「来年の秋」と受け取れるものであり、天正10年の秋という解釈が可能なのか俺にはわかりかねます。


さて、ここまでのことは「秋」を「春夏秋冬」の「秋」だとした場合の話であって、そうではないとしたら全く別の解釈が可能になるように俺は思います。


すなわち

[補説]特別重要な時期の意で用いられる「危急存亡の秋」などの場合は「秋」を「とき」と読む。

あき【秋】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
の「秋」であり、つまり「来秋」とは「きたるとき」という意味ではなかろうかと思うわけです。


だとすれば、

一 今度御請、兎角于今致
  延引候段更非他事候、進物
  無了簡付而遅怠、既早
  時節都合相延候条、此上者
  不及是非候歟、但来秋調法
  を以申上、可相叶儀も可有之哉と
  致其覚悟候

の「調法」とは、先に「進物」とあるので「重宝」の意味とも思えるけれども、そうではなくて「調伏法」の意味であろうと思えるわけです。
ちょうぶくほう【調伏法】の意味 - 国語辞書 - goo辞書


つまり長宗我部元親は自身の滅亡の時が迫っていることを実感していて、これはもうどうしようもない(是非に及ばず)と思っているけれども、それでもまだ密教の調伏の法を唱えれば何とかなるかもしれない。ということで、逆に言えば、織田軍が攻めてくれば軍事的に立ち向かうことはどう考えたって無理だ。後は神頼みして奇跡を待つしかない。というあきらめの境地を表明しているということになるのではないかと思うのであります(結果的にその「奇跡」が起きたわけですが)。


※ しかし不安なのは俺が誤写しているかもしれないということで、もう一度展覧会に行って確認しなければならないのかなあと思案しているところ。


※ 本当申し訳ないことなんだけれど、ノートに写すときにルビは面倒だし、どうせわかるだろうと省略してしまったんで、もしかしたらここにルビがあったかもしれないと反省している。