「小瀬甫庵史観」の続き。
小瀬甫庵の史観がどんなものだったのかを考えた上で『太閤記』は再検討する必要があると俺は思っている。たとえば「墨俣一夜城伝説」。
墨俣一夜城伝説については有名なのでここで詳しく説明はしない。
1561年(永禄4年)5月の織田信長による美濃侵攻にあたって、または1566年(永禄9年)[2]に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜城を築いたという逸話がある。
墨俣一夜城伝説は史実ではないと考えられている。それはそうだろうと俺も思う。
ここで問題にしたいのは「墨俣一夜城伝説がいつからあったのか」ということ。
この伝説は『絵本太閤記』『真書太閤記』で知られる(『武功夜話』にも見えるがこれは近現代の偽書である可能性が高い)。
『絵本太閤記』の記事は『太閤記』の記事を典拠にしたと研究者に考えられている。
秀吉の伝記として記された小瀬甫庵の『太閤記』(1626年(寛永3年))には、「1566年(永禄9年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった」という記述がある。
『太閤記』に「秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった」とあるのを膨らませて、墨俣城を築城したことにしたというわけだ。本当はもう少し込み入った話なのだが、詳しくは『信長の戦争』(藤本正行 講談社)などを参照のこと。
しかし、俺には本当にそれでいいのだろうかという疑問が無くもない。
小瀬甫庵は聞いたことを素直に受け取る人物ではなくて「真実」(だと考えること)を記録する人物だとしたら、別の可能性も出てくるのではないか。甫庵がそういう人物だったとしたら、「修正」されたのは史実だけとは限らない。民間伝承もまた「修正」された可能性がある。
すなわち、「秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった」というのは、甫庵が耳にした生の情報ではなくて、甫庵によって加工されたものかもしれないという可能性だ。
何が言いたいかといえば、「墨俣一夜城伝説」(あくまでも伝説だけど)が既に甫庵の時代に存在した可能性もあるのではないかということ。甫庵は「墨俣一夜城伝説」を知っていたけれど、荒唐無稽な話なので、「真実はこうだったのだ」と考えて、それを「修正」して『太閤記』に書いた可能性はないのかということ。
俺はその可能性は十分あると思うんですけどね。