村雲御所

豊臣秀吉の姉で、秀次の母である瑞龍院日秀

諱はとも、位記上の本名は智子(ともこ)。通称に村雲尼(そんうんに)、日秀尼(にっしゅうに)。院号は瑞龍院(ずいりゅういん)。

日秀 - Wikipedia

智(とも)は子供のない弟・秀吉に長男の秀次を養子として出していたが、文禄5年(1596年)、秀次は切腹を命じられ、秀次の妻子も三条河原で処刑、夫の三好吉房も流刑となった。唯一残された智は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家、以前から帰依していた日蓮宗による寺院を嵯峨の村雲(現在の二尊院の近く)という場所に開いたのである。このときに村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのが後陽成天皇であり、このため瑞龍寺日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院となり、別名を「村雲御所」と称するようになる。以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えたのである。江戸時代には嵯峨から西陣(現在の堀川今出川付近)に移転する。

瑞龍寺 (近江八幡市) - Wikipedia


京都府上京区にかつて「村雲町」という地名があった。『角川日本地名大辞典』によると「元亀米賄帳」という史料に「村雲横町」という地名が見え、これが江戸時代の「村雲町」の全域または一部に比定できるという。


元亀は「1570年から1573年」だから、この時既に京都に「村雲」という地名があったということだろう。そして文禄5(1596)年秀次切腹後のいつのことかわからないけれど、後陽成天皇により「村雲」の地を賜ったということだ


ウィキペディアの「嵯峨の村雲(現在の二尊院の近く)」とあるけれど、おそらく間違いであろう。文禄5(1596)に嵯峨野に庵を設け二尊院の僧に供養を願い、慶長5(1600)年に京都岡崎に善正寺を建立したとある。
善正寺(わたしの青秀庵)
善正寺の門柱に「豊臣秀次公 村雲門跡瑞龍寺 御墓所」とあるそうだ。それで勘違いしているのかもしれない。


さて、俺がなぜこの「村雲」に興味を持つのかというと、名古屋市昭和区に村雲町という地名があるからだ。


そして『真書太閤記』によれば、秀吉・日秀の祖父(母の父)の持萩中納言尾州村雲村に配流されたとある


日秀は京都と名古屋の二つの「村雲」と関係があるのだ。実に不思議なことではないか。


これをどう解釈したら良いのだろう?