半場(橋場)村と材木町

別説によると筏師の飯場があったため、地名となったというが、天竜川水系から筏で流下させた木材が半場で陸揚げされるようになったのは、明治中期以後であるから、この説は受け入れにくい。

筏に組まれた天竜材が半場にあげられるようになったのは、東海道線が開通し、天竜川駅が開設された明治25年で、当初は貨物専用の駅であった。しかし明治31年7月から一般旅客も乗降ができるようになった。

町名の由来・材木町 ◆ 和田地区地域情報


半場村が材木町という地名になったのは、明治中期以後にここで木材が陸揚げされたためだという。ということは逆に言えばそれ以前はそうではなかったというように読める。しかしながら半場村ではないとしても地理的に見ればこのあたりで木材を陸揚げしていたように思える。それがどこなのかは少し調べてみたけどわからなかった。


天竜川の水運」(日下部新一)という資料に、徳川家康浜松城の改修をしたとき(天正六年1578)材木を筏で下して当時天竜川本流の馬籠川(馬込川)まで乗り下げたという史料が掲載されている。
天竜川の水運(PDF)


浜松城の改修に使う木材だから馬込川に下すのが合理的だが、浜松城主が飯尾豊前だった頃、すなわち秀吉が松下氏に仕えていたとされている頃の遠江には、松下氏のような土豪がいたわけで、現在の天竜川の方でも材木が陸揚げされていたと考えるのが自然だと思う(確かなことはわからないけど)。半場を支配していたのが誰なのかは調査不足で不明。


ところで、橋場地名を検索していたら、金沢市「橋場町」という地名がある
橋場町 (金沢市) - Wikipedia
地名の由来は

町名は大橋詰めの位置に由来するという。

とのこと。
歴史のまちしるべ標柱一覧


その隣の地名が「材木町」だ。


さらに、川向こうに何と「豊国町」がある。非常に狭い区画でグーグルマップで見ると小さな公園があるだけのようだ。こちらの地名は上のサイトによると、

観音山下町が改称されたもの。豊国神社社殿の麓にあったことから、明治元年、この名がついた。

と地名自体は新しいものだが、明らかに秀吉に関係する。


※ また「真田丸」でおなじみ沼田市沼田城の東側に「材木町」があり、それと接して「高橋場町」がある。「高橋場」が「橋場」なのか地名由来が今のところわからないけど、とても気になる。


秀吉といえば、墨俣一夜城伝説が有名。

『絵本太閤記
武内確斎著・法橋岡田玉山挿絵、読本、寛政9年(1797年)初編刊行
永禄5年(1562年)の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられている。信長の命令で、最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗。そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、とき6月中旬の雨で戦闘中断、材木を組み立て、一夜にして完成。馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似たる長城。砦の普請まったく整い、清洲の信長に報告、金銀を褒美として賜る、と表現している。

墨俣城 - Wikipedia
これは史実ではないというのが通説であろうが、少なくとも江戸時代にそういう伝承があったということは言える。


また秀吉といえば、高松城の水攻めが有名。天竜川は複数の水系に分かれ、その中間にあった半場村を含む地域は、天竜川が改修される前にはしばしば水害で水浸しになったに違いない。


秀吉と浜松の「ハシバ」とのこうした符合がすごく気になるのである。


※ 農耕に不適切だった地域で何が経済基盤だったのかも考える必要があるだろう。
※ また昨日書いたように、秀吉と蜂須賀小六が出会ったのも(物語では)川であり、小六が(物語では)墨俣砦の建設にも関わっているのは有名な話。


※ なお江戸では千住の「橋戸」に材木商が並んでいたという
千住宿 - Wikipedia