服部英雄氏の秀吉論について(その2)

次にこれはちょっと調べてみないとよくわからないのだが本の順番にしたがって疑問点だけを書いておく。

 本書では清須生誕説をふまえて清須の町を検討してみた。しかしながら秀吉の「郷里」中村については『祖父物語』(『清須翁物語』)にも記述があって、秀吉が幼年期を中村で過ごしたことはまちがいのないことだ。(p556)

とある。『祖父物語』の記述とは

 小早川(隆景)が清須から中村まで秀吉の供をした。「小早川には恥じるような話だが、自分はこの中村で育ち、わやく(無茶、非道)なることもして遠江に落行し、松下石見に仕えた)。侍ほどおもしろいことはない」。

というものだ。ところがその部分『群書類従』所収の「祖父物語」では

太閤仰ケルハ。小早川ニハ恥カシケレドモ。我此中村ニテ生立者ハナシ。

とあるのみなのだ。『史籍集覧』や『清洲町史』に所収の「祖父物語」とはどうやら違うらしく後半部分が抜けている。今度図書館で確認しなければならない(『清洲町史』は俺の地域の図書館にない)。


しかし、それよりも問題なのは「我此中村ニテ生立者ハナシ」の部分である。『史籍集覧』には何と書いてあるのかわからないが服部氏は「自分はこの中村で育ち」と訳している。しかし『群書類従』の「我此中村ニテ生立者ハナシ」は「自分はこの中村で育ち」とは訳せないように思われる。といっても俺は古文読解に自信がないのだが…


「生立者」とは何か?「生い立つ」を「育つ」とすると「私はこの中村で育った者」まではわかるが「ハナシ(は無し?)」は一体何だろうかということになるのではないか?


辞書によれば

1 草木が生えて大きくなる。
「ある年のちょうど若苗の―・つころ」〈堀辰雄・かげろふの日記〉
2 伸び育つ。成長する。
「加茂川の水柔らかなる所に―・ちて」〈露伴風流仏

おいたつ【生(い)立つ】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
のほかに

[動タ下二]育てる。
「一人養ひて―・て給ひたるとこそは聞き侍れ」〈成尋母集・詞書〉

とある。「育てる」だとすれば「我此中村ニテ生立者ハナシ」とは「私はこの中村にて育てた者がいない」ということになるのではなかろうか?するとその前の「小早川ニハ恥カシケレドモ」とは「領主として恥ずかしいことだけれども」ということになり、その後の「作り取り(無年貢地)」にするというのは、秀吉が育った場所だから年貢を取らないということではなくて、領民を撫育するために年貢を免除するという意味なのではなかろうか?


しかしてその本当の理由は服部氏が

隆景は減収にはなるが、秀吉のために賛成したのである

と書いているように「隆景の減収」が目的だったのではなかろうか?故に二年後に年貢皆免を取り上げたというのは、表向きの理由は高麗陣に中村の百姓が陣中見舞いに来なかったからということになっているけれど、本当は年貢皆免をする「真の理由」が消滅したからではないだろうか?(隆景が清須の留守居役をいつまで担当していたのか知らないけれど)


すなわち俺の考えでは『祖父物語』の世界における秀吉は中村とは何ら縁がなく、若い頃通りかかったとき(あるいは草を取る目的で来たとき)に中村の住人とトラブルがあっただけという可能性があるのではないかと思うのである。


※ なおここでさらに問題になるのが「草を取る」ということだ。なぜ秀吉は草を取ったのか?なぜ仁王(二王)は怒ったのか?服部氏は何の説明もしていないが重要なことではなかろうか。