大石内蔵助と京都

山鹿素行が赤穂に追放されていた頃、大石内蔵助ティーンエイジャーだったわけですが、京都に行って伊藤仁斎の門に入った時には既に家老職を継いでかなり経った頃。何故或いはどういう名目で京都へ行ったのか。

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長之は赤穂城開城後に親族の赤穂藩士進藤俊式や大石良雄を、管理していた近衛家領の山科へ迎え入れた。なお、良雄が江戸に下向する際に金の無心をすると断っており、後で仇討ちのためだったと知ると、金を貸さなかったことを後悔したという逸話が伝わっている。

進藤長之 - Wikipedia


良雄の曽祖父大石良勝

関白豊臣秀次の家臣大石良信の次男として誕生。母は近衛家家臣の進藤長治の娘・志茂。兄に大石良照、弟に大石信云がいる。

大石良勝 - Wikipedia

確か母は嫁ぐ前に近衛前久の子を宿していたという落胤伝説があったと思う。



伊藤仁斎については

また、16〜7歳頃には、京で伊藤仁斎の堀川塾に学び、

大石内蔵助の墓 (大阪市住吉区)
とありますね。本当かどうか知らないけど。でも『先哲叢談』のエピソードはいい大人のエピソードというより若い頃の話っぽいですね(隠棲時代の話としているところもあるけれど)。