村雲御所(その2)

「村雲御所」の続き。


豊臣秀吉姉の日秀は京都と名古屋の二つの「村雲」と関係がある。これをどう解釈したら良いのだろう?


『真書太閤記』は後世に書かれた俗書であり、ましてや持萩中納言など実在しないのであり、全く信用できないという考え方もあるだろう。ただし、その場合でも、『真書太閤記』にある「持萩中納言尾州村雲村に配流された」という話はどこから出てきたのだろうという疑問は残る。


京都の「村雲」からの連想という可能性はあると思う。しかし、そう考える場合には、秀吉の母の出身地が「御器所(ごきそ)村」であることも疑問視する必要がある。なぜなら村雲と御器所は隣接しており、眼と鼻の先にあるからだ。


豊臣秀吉』(小和田哲男 中公新書)に、

御器所から木地師を連想することはたやすい。秀吉の母大政所が木地師の出身であったかどうかは別としても。彼女が木地師集団となんらかのつながりをもっていたことを想定することはまちがっていないのではなかろうか。

とある。小和田氏だけでなく「御器所」に注目する人は多いのだが、「村雲」が京都の村雲の連想にすぎなければ、御器所は関係ないとするわけにはいかないだろう。


※ 追記1/30
(「関白任官記」にも「村雲」とあるから、上に書いた京都の村雲からの連想というのは無さそうだ)



逆に、日秀が京都の村雲の地を下賜されたのは、豊臣氏発祥の地ともいえる尾張の「村雲」と同じ名前を持っていたからとも考えられる。この場合は朝廷が持萩中納言なる人物の存在を公認したということになるかもしれない。



ところで、瑞龍寺「村雲御所」と称するようになったのは、日本歴史地名大系(平凡社)によると明和元(1764)年12月28日のことで、

伏見宮家などの皇室や九条家二条家などの摂関家からの入寺があり、当時の付近一帯を村雲と別称していたことによる。

とある。


瑞龍寺は随分と格式の高い寺であったようだ。また、

徳川家康が俸禄を給し、家光は五〇〇石を給して二条城客殿を堂舎にあて増築した(坊目誌)。

ともあり、徳川家の庇護も手厚かったようだ。


豊臣家ゆかりの寺であるのに、江戸時代にこれほどの待遇があったというのは不思議といえば不思議。もっとも秀次追善のための寺であるから、親秀吉・秀頼というわけではないのかもしれないけれど。


※(追記)
日秀の次の住職に九条忠栄の娘がなって門跡になったとある。
『公家・廷臣・門跡について〜5巻目』