豊臣秀吉の母の生年は不明だけれど、ウィキペディアによれば永正10年(1513年)または永正13年(1516年)としている。
⇒大政所 - Wikipedia
秀吉の生年は天文5年(1536年)説と天文6年(1537年)説がある。
⇒豊臣秀吉 - Wikipedia
秀吉の姉の瑞龍院日秀は天文3年(1534年)生まれとされる。
⇒日秀 - Wikipedia
いずれも本当のことはわからないけれど、だいたいこんなものだろう。
一方、「日秀妙光」は「一説では永正3(1506)年生まれともいう」とある。
⇒日秀妙光 とは - コトバンク
仮にこれが正しいとすれば、18歳のときに夫の吉野右馬允を戦乱で失い翌年出家したとあるので、嫁いでから1523年までは御器所(ごきそ)にいたことになる。
「なか」(大政所)が嫁いで程なく瑞龍院が生まれたとすれば、1534年の少し前まで御器所の住人だった可能性が高い。だとすれば、日秀妙光と「なか」は同じ時に同じ所に住んでいた可能性が高いということになる。
当時の在地領主と領民の関係を考えれば「なか」の身分が何であれ、日秀妙光と「なか」は顔見知りだった可能性も高いということになる。「なか」が非農業民であれば、城館の中で働いていたかもしれない。とすれば毎日のように顔を合わせていたかもしれない。もし、そうだとすれば、その後も日秀妙光と「なか」は無関係ではなかったのではなかろうか(そういう史料があるのか知らないけれど)。
日秀妙光は織田家中に影響力を持っていたはずだ。
元亀1(1570)年,正親町天皇より天下泰平,宝祚延長の祈祷を命じられた。
というのも、信長の上洛と関係していることはまず間違いないだろう。
以上のことを考えると、もしかしたら秀吉が織田信長に仕えることになったのも日秀妙光のコネがあったからかもしれないなんて思ったりする。
そして「木下藤吉郎秀吉」の「秀」も、そして豊臣家の通字の「秀」も、実は日秀妙光の「秀」だったりするのかもしれないなんて思ったりする。
もちろん証拠は何もない。
※日秀妙光は善光寺如来の仏前で出家したという。善光寺如来は慶長元年(1596年)に方広寺の大仏が倒壊した後、秀吉によって甲府から移され本尊となった。ただし善光寺の本尊は武田信玄・織田信忠・信雄などの手によって転々としている。
⇒全国各地を転々とした善光寺のご本尊|信州長野 善光寺参り
※なお「なか」は同じ御器所でも佐久間氏の御器所西城との関係が良く指摘されている。
⇒尾陽神社 - Wikipedia
吉野城は現在の御器所3丁目、御器所西城は御器所2丁目、「なか」の出生地とされる御所屋敷は御器所3丁目。