二人の日秀

秀吉の姉「日秀」について


善正寺(わたしの青秀庵)
より。

 文禄5年(1596)のはじめ、武家社会の非情さ、儚さを実感したとも(智)は、秀次の菩提を弔うため密かに嵯峨野に庵を設け近くの二尊院の僧に供養をお願いした。この小さな庵が善正寺の始まりという。自らは、日頃から帰依していた日蓮宗本圀寺の日禎(にちじょう)上人に得度を受け瑞龍院妙慧日秀と名乗る。その後、慶長5年(1600)、日蓮宗の日鋭上人を開山に迎え現在の地(岡崎)に堂宇を建立し、秀次の法名から善正寺と号し遷した。

「日秀」という法名日蓮宗の僧の「日」と、豊臣家の通字の「秀」から成っているのだろうと思われ。


しかし、気になるのが、この時代に「日秀」という尼僧がもう一人いたこと。彼女は慶長6 (1601)に没しているから、正確には数年かぶっているようだけれど、丁度入れ替わったようになっている。


その人は「日秀妙光」という。
日秀妙光 とは - コトバンク

戦国時代の浄土宗の尼。一説では永正3(1506)年生まれともいう。尾張国愛知郡小林村(名古屋市中区)の土豪山田藤蔵の娘と伝える。

「小林村」というのは、現在の中区で、「小林城」の城跡が大須にある。萩中納言の「村雲」からそれほど離れていない場所にある。
小林城

18歳のときに夫の吉野右馬允を戦乱で失い,翌年失意のうちに信濃(長野県)善光寺を参詣し,如来の仏前で出家した。

「吉野右馬允」の居館は吉野城で

吉野城は御所屋敷付近に存在した。吉野右馬允の妻は、現在の愛知県名古屋市熱田区にある誓願寺の開祖である。

吉野城 (尾張国) - Wikipedia


日秀妙光は御器所(ごきそ)の住人だった


『太閤素性記』に、

秀吉母公モ同国ゴキソ村ト云所に生レテ木下弥右衛門所ヘ嫁し秀吉と瑞龍院トヲ持

とある。つまり、瑞龍院日秀の母の生まれた地に日秀妙光が住んでいたのであった。


これまた偶然というには出来すぎた話のように思われる。


※なお『太閤素性記』によると、瑞龍院日秀の法名日蓮宗の上人、常楽院日敬から来たものだという。日敬は浄土宗との宗論のとき耳と鼻を切り取られたそうだ。もし、それが本当なら浄土宗の尼である「日秀妙光」と同じ法名を付けたというのも不思議なことだ。

(2/4追記 『太閤素性記』による瑞龍院の法名は「日敬」となっていた。後の方に書いてあったので気付かなかった。「日敬」という法名の真否については確認できず。)



ところで「日秀妙光」についてだけど、

のち,織田信秀の援助を得て,熱田神宮の西隣りの地(名古屋市熱田区旗屋町)に誓願寺を建立して居住。熱田神宮の社殿修造に際して,勧進活動に従事する存在であったかと推察される。元亀1(1570)年,正親町天皇より天下泰平,宝祚延長の祈祷を命じられた。そして同じころ,紫衣の着用と上人号の使用を認可されている。

日秀妙光 とは - コトバンク


そして日秀妙光は人質時代の竹千代(徳川家康)の教育係でもある。誓願寺の山門に葵紋があるのはそのためだといわれる。
源頼朝出生地 誓願寺