村雲御所(その3)

「村雲御所(その2)」の続き。


秀吉・日秀の祖父、萩中納言(持萩中納言)は尾張の「村雲」に配流された。一方、豊臣秀次を追善するために日秀が建立した瑞龍院は京都の「村雲」にある。


ところで、ここにもう一つの「村雲」がある。兵庫県篠山市の村雲だ。

「村雲」の地名は平安時代の永保(えいほ)元年(1081)に、詠まれている古歌(こか)があります。
「雨の下年へぬ秋ぞなかりける村雲の神のしるしに」と。
その後、平安末期には、京都の九条家の領有となり、その政所(まんどころ)(政庁)が村雲の北条に置かれていました。

篠山の地名考 村雲(むらくも)


これは興味深い。もし九条家の誰かが下野した場合、この地に来るということもあるだろう。とすれば、萩中納言尾張の村雲で土地の娘と結ばれて秀吉の母が生まれたというのに似たことが、篠山の村雲で起こりえたかもしれないのだ。


『戴恩記』の秀吉の逸話は、秀吉が関白に就任するために近衛前久の猶子になり藤原氏となったときのことだ。このとき近衛前久九条稙通(松永貞徳の師)との間に相論があった。それで秀吉は豊臣という新たな姓を創設したのだ。


このとき九条稙通は秀吉の「祖父」が村雲に配流されたという話を聞いていた可能性は高い。稙通は篠山の村雲に九条家の領地があったことを知っていただろう。このあたりに何らかの「かけひき」的なものがあったように推測できなくもない。


あと、先に書いたように、京都の瑞龍寺(村雲御所)は九条氏ゆかりの寺でもある。これも、ただの偶然ではない何かがあるように感じられる。


(追記 1/30/15/40)
というか、九条家と豊臣家は関係があるんですね。
豊臣完子 - Wikipedia
父は羽柴秀勝(日秀の子)・母は今年の大河の主人公「お江」。九条幸家正室
萩の御前
娘に瑞円院(瑞龍寺二世日怡比丘尼)。


日秀は今の天皇家のご先祖になるんですね。知らなかった。