豊臣秀吉の誕生日(その3)

豊臣秀吉の誕生日(その2)の続き。


聖徳太子伝暦』は、太子の母は欽明天皇32年辛卯正月朔甲子の夜、金色僧の夢を見て懐妊し、敏達天皇元年正月一日に太子を産んだとする。妊娠期間は12ヶ月だ。


一方、豊臣秀吉が母の胎内にいた期間は、『太閤素性記』は天文5年正月朔日とするのみだから不明。『真書太閤記』は「十三ヶ月目」とし、『絵本太閤記』には「孕事十三月」とある。


天文5年正月一日に生まれとするのだから、「十三ヶ月目」だとすると、懐妊したのは天文4年正月ということになる。「孕事十三月」だと「満13ヶ月」とすれば天文3年12月になる。両者は似ているようで異なる解釈ができてしまう。おそらく「十三月」が最初にあって解釈が異なってしまったのだろう。


『関白任官記』は天文6年2月6日に生まれたとする。もしこれが「13ヶ月目」だとするなら懐妊したのは天文5年3月(閏月があるので)、「満13ヶ月」なら天文5年2月ということになる。


ただし、そもそも『関白任官記』に懐妊期間は書いてない。「13ヶ月」という設定が秀吉自身によるものだという根拠はない。


とはいえ、この「13ヶ月」が元々は「1年と1月」だったとすれば話は違ってくる。懐妊期間が「1年と1月」だとすれば天文5年正月に懐妊したことになる


あくまで仮説だけれど、本来の伝説が「母が天文5年申年正月1日に懐妊して(もしくは霊夢を見て)1年と1月で秀吉が生まれた」というものであったのが、後に変化して「懐妊13ヶ月後の天文5年正月1日に生まれた」となった可能性はあると思う。


とすれば、「天文6年2月6日」だって必ずしも、それが正しいとは言えないように思うのだが、いかがであろうか。


※なお、『絵本太閤記』は「孕事十三月」とはっきりと書いているけれど、『真書太閤記』は「十三ヶ月目に当て天文五丙申年正月元日卯の刻男子出生せり」とあるのみで、実は妊娠13ヶ月と書いてあるわけではない。上では便宜上妊娠期間としたけれど、素直に読めば日吉権現に日参していたところ或る夜の夢に日輪が懐中に入る夢を見て、それから13ヶ月目という意味であり、夢を見た日に懐妊したとは一言も書いてない。


※ただし「夫より只成ぬ身と成しかば」とは書いてある。「夫(それ)より」は「夢を見た日から」と受け取ることは可能だけれど、その日からしばらく後でも「夫より」ということは可能だろう。また「只成ぬ身」とは懐妊したという意味ではなく、「只成ぬ身」になったので懐妊したのではないかと思ったという意味であろう。おそらく著者もその日に懐妊したということではなくて、それからしばらくして懐妊したという認識があったのだと思う。それをぼかした表現にしているのではないだろうか。


遡って『戴恩記』に見る秀吉の言葉も、さらっと読むと夢を見てすぐに懐妊したように読めるけれど、必ずしもそうではないようにも読める。また『関白任官記』も必ずしも禁中に仕えていたときに懐妊したとは言い切れない。ただし、これらはどちらとも受け取れるような書き方をしながら、受け取った方には奇瑞であると印象付けようとしているのであろう。