羽柴=橋場説について(その2)

『太閤素性記』によると、中々村の「猿(秀吉)」は父の遺産の一部を持って清須に行き大きな針を買い、その針を食事や草履と交換しながら浜松まで来た。そして浜松の外れの「牽馬の川(引馬川)」を歩き回っていた。その頃の浜松の城主は飯尾豊前守といい今川の幕下だった。近所に久能(袋井市)という所があり松下加兵衛という小城主がいてこれも今川の幕下だった。加兵衛が久能から浜松に行く途中で「猿」を見つけ「異形の者だ、猿かと思えば人、人かと思えば猿だ。どこの国から来た何者か?」と人を遣わすと「尾張から来た」と答えた。また「幼少の者が遠路どのような理由でここまで来たのだ?」と聞くと「奉公の仕事をしたいので来た」と答えた。それを聞いた加兵衛は笑って「俺のところで奉公するか?」と聞くと「猿」は畏まった。それより浜松へ連行し飯尾豊前に対し加兵衛は「道にて異形なる者を見つけました。猿かと思えば人、人かと思えば猿、ご覧ください」と召し出した。豊前の子供幼き娘などが出てこれを見た。また傍らの者がこれを見て笑った。皮の付いた栗を取り出して与えると、口で皮を剥いて食べ、本当に猿にそっくりだった。それより此方彼方と愛され、古い小袖をもらったり絹紬の衣装をもらったりして、沐浴などさせ袴などを着ると、その姿は清らかで始めの姿とは別人のようだった。最初は加兵衛の草履取りなどと同じ扱いだったが、後は引き上げ加兵衛の手元に置いた。使いとしてかれこれ一つとして加兵衛の心に叶わないということがなかった。ついには加兵衛の納戸の取入れ取り出しを申し付けるまでになった。これによって以前からいた小姓どもはこれを妬み香芥が無くなれば「猿」が盗んだと言い、小刀が無くなれば「猿」が取ったと言い、印籠巾着鼻紙などが無くなれば「猿」を疑った。加兵衛は慈悲深い人で、遠い国の行方知らずの者だからこのような無実の言いがかりをつけられるのだと不憫に思い、各種言い聞かせ本国へ帰れと言い永楽銭30疋を与え暇を与えた。これを路銭として「猿」は清州に帰ってきた。


もちろん『太閤素性記』は二次史料と呼ばれるもので信用性は低い。ただし研究者の中には他の『太閤記』などと比較した場合にこれを重んじている人もいる。しかしながら前にも書いたように、これは「日本版シンデレラ」というべき「はいぼう(灰坊)」の物語である。もっともそう主張しているのは俺だけではないかと思うけれど「衣装を身に着けると好青年になる」とか、「同僚にいじめられる」とか「故郷に帰る」とかいった要素は疑う余地がない。また飯尾豊前の娘などが笑ったというのも「灰坊を見ると娘の病気が治った」という話と近い。なおより近いのはグリム童話の「金のがちょう」で「生まれてから一度も笑った事がない姫が笑った」という話。なおこれも「絵姿女房」などの類話がある。


したがって『太閤素性記』の史実性はほぼ皆無である。ただし秀吉と松下氏に何らかの関係があったということだけは、史実を反映したものであろう。『太閤素性記』の物語性を考えた場合、松下加兵衛と飯尾豊前の両名を登場させる必然性はない。松下加兵衛が見つけて加兵衛の城に連れていって加兵衛の娘が笑うか、飯尾豊前が見つけて豊前が秀吉を雇えば話として成立する。両名が登場するのはおそらく最初は加兵衛と秀吉の物語だったものが、「引馬(馬を引く)」という城の名が「猿が馬を引く」という、日本だけでなく孫悟空などにもあるモチーフと結びついたからだろう。


なお小瀬甫庵の『太閤記』にも松下加兵衛に仕えた話が見えるが飯尾豊前は登場しない。また『太閤素性記』は『太閤記』の秀吉が加兵衛から尾張に行き具足を買って来いと命じられて黄金五六両を与えられたのを、信長に仕えるための支度金にしたという話を否定しているけれども、おそらくはそういう話もあったのだろう。もっともこれも前に書いたけれども、小瀬甫庵は荒唐無稽な物語から荒唐無稽な部分を除去して「歴史」にしているのではないかと思えるので『太閤記』の話も史実ではなく、本来の話は「おとぎ話」の要素がたっぷり詰め込まれたものだったのではないかと思う。


ということで、何が言いたいかというと、秀吉と松下氏には何らかの関係があった。おそらく秀吉が松下氏との関係で遠江にいたことは間違いないだろう。しかしながらその関係は『太閤素性記』や『太閤記』が語るようなものとは全く違ったものだったのではないかということ。


それが「羽柴」と何の関係があるのかというと、最近気づいたことなのだが大ありなんである。でも長くなったから今日はここまで。


(つづく)