中国大返し(その7)の続き。
本能寺の変が6月2日の早朝。
豊臣秀吉が本能寺の変を知ったのは3日とする史料が圧倒的に多いが4日説もあり。
毛利方と和議を結んだのが4日。
秀吉が高松を去った日については4日説5日説6日説がある。
毛利方が本能寺の変を知ったのは4日説と5日説があるが、吉川広家の書状によれば、前日に神文を取り替えたとある。
4日であるにせよ、5日であるにせよ、毛利方は2日の本能寺の変の情報を程なく得ているのだ。それが秀吉よりも遅かったというだけだ。
そして、秀吉もまた毛利方が程なく情報を得るだろうということはわかっていたはずだ。
秀吉が黙っていればバレないという話ではない。
多くの研究者が、秀吉が毛利に本能寺の変を伝えたということを否定する。
逆に言えば、秀吉は毛利方に本能寺の変が知られても何の手もうたなかったということになる。
たとえば鈴木眞哉氏は、毛利方が攻めてこなかったのを「運のよい話」だとする。
毛利方が追撃するのか撤退するのかはもちろん毛利方が決めることなので、その意味では「運のよい話」だといえるだろう。
だが、その際に秀吉が何のアプローチもしなかったのだろうか?
秀吉は信長の死を秘して4日に毛利方と和議を交わした。
信長の死を秘したのは和議を交わすためのものである。
それ以上のことは望まなかっただろうし、望んでもそれは無理なのだ。
一旦和議を交わした後に、信長の死を毛利方に知らせ、毛利方に協力を願い出たのだ。
(その際馬鹿正直に騙していたと告白する必要はないだろう。和議を交わした後に知ったことにすればいいのだから)。
信長の死を知った(であろう)毛利方に対して何もせず、ひたすら受身の姿勢でいたというのが「定説」で、信長の死を知らせ協力を願ったというのが「荒唐無稽の説」というのは、どう考えたって話が逆なのだ。