淀君は聖なる女性(その1)

まだまだ書きたいことはいっぱいあるんだけれど、前に少し書いたように、近々ブログ休止する予定なんで、細かいことは省いて結論を書くと、俺が「淀君」の呼称に大きな関心を抱いている理由というのは、俺が、実のところ、


淀君は聖なる女性である


淀君には遊女の属性がある


という仮説を持っているからなんですね。


それを主張するためには、まず「悪女、淫婦というイメージとともに売春婦の呼称「遊君」「辻君」などと結びつけて定着した」という説を否定して、その後に再構築するという作業が必要だと思っているんです。


小谷野敦先生には申し訳ないけれど、俺が考えているのはそういうことです。トンデモだと思ってくれても構いません。


大体、「遊女は聖なる存在だった」と主張する学者がいっぱいいるというのに、それを指摘する人がいないのは実に不思議なことだと思っています。ただし、その中で田中貴子氏は『あやかし考』の「淀殿拾遺」の「付・淀殿の伝説」で淀君と水の関係を論じているのは、いい線いっていると思っています。俺が淀君と水の深い関わりに大いに関心を持っているということは既に書きましたけれど、田中氏とは別件であるにも関わらず似た考えが導き出されているということは、大いに勇気付けられているんです。


「淀君」と「明石の君」はおなじか - 夏への扉、再びーー日々の泡
田中貴子に答える - 猫を償うに猫をもってせよ


淀君」が蔑称ではないということに関しては、その通りだと思っているし、田中氏反論は今のところ反論になってないと思う(はっきりいって脱力した)ので、小谷野氏には大いに頑張ってもらいたいと思います。田中氏が勧めているけれど、どこかの雑誌で批判を書けばいいんだと思います。