淀君は聖なる女性(一応のまとめ)

長々と書いてきたが、今回書くことのきっかけとなったのは福田千鶴の「淀君」蔑称説否定であった。

ただし、幕末に編纂された「徳川幕府家譜」で徳川家康の継室朝日姫が「朝日君」、秀忠の継室崇源院が「於江与君」とされているので、「君」が蔑称だとする説は成り立たない[10]。

淀殿(ウィキペディア)


この「徳川幕府家譜」の記述をどう解釈するかだが、それについて田中貴子氏は、

 この、女性名についての「君」については、福田氏が、


 秀忠の「御台所」は「於江予君」と号されている。このように、近世後期になっ ても「君」が敬称として用いられる場合もあるので、「淀君」のそれがすぐさま 「辻君」や「立君」からきた蔑称であると断定することにも一定の保留が必要だ ろう。(4頁)


と述べているものの、角田文衛氏の『日本の女性名 中』(教育者歴史新書、1987)にはそういった記述が見えず、「於江予君」一例だけでは「君」が敬称だったことの確証としてはやや弱いと思われる。

「淀君」と「明石の君」はおなじか - 夏への扉、再びーー日々の泡
と書いている。


福田千鶴氏がどう考えているのかは知る由もないが、俺は、「淀君」「朝日君」「於江与君」は全て「聖なる女性」なのであり、そうであるが故に「君」が付けられているのであろうと思いますね(それにしても「一例だけ」って何で朝日君を無視しているんだろう?)。


探せばまだまだ興味深いことがあるだろう。例えば、於江与の方の子であり、家光の弟である松平忠長。

寛永8年(1631年)頃、辻斬りや家臣の手打、浅間神社で猿を狩るなどの行状が見られ、細川氏などの大名の間では、改易された松平忠輝松平忠直のようになると風聞されている(『細川家史料』による)。

松平忠長(ウィキペディア)


忠長失脚の原因の一つが「猿狩り」なんですね。忠長失脚についても例によって「家光の陰謀」なんて言われていますけど、そういう陰謀論で済ましていると、こういうのが見えなくなってしまうんですよね。実際関係あるかわからないけれど、もっともっと深く考えてみる必要があると思うんですよね。


(ところで田中貴子先生に俺の記事読んでもらいたいなあなんて希望したりもするんだけれど、トラックバック送れないんですよね。どっちにしろ素人など相手にしない可能性大だけど)