失脚と死

徳川家康のすべて』(北島正元編、新人物往来社)を読んだのは、徳川家康以前の松平氏について調べようと思ったからなのだが、そこで気になったことがある。


まず、家康の曽祖父の松平信忠について。

信忠の場合、一部の家臣たちは信忠を廃して弟信定を立てることを考えた。信定は碧海郡桜井に分家していた。「信定も同じ長親の子であり、優れた人物」という主張と、「松平家の当主、つまり主君は信忠。主君に背くことはできない」という主張がぶつかり合う。一門・国侍の離反と、家臣の内紛を見、その混乱の中で信忠は身を退くことを決意した。その背後にはまだ健在な長親の指図もあっただろう。大永三年(一五二三)、嫡子清康に家を譲り、次男信孝に碧海郡合歓木郷を、三男康孝に同郡三木を譲り、信忠は同郡大浜郷に退隠した。そして翌年七月、死去した。四十六歳とされている。

「徳川家の由緒と家系」(林亮勝)より


信忠は評判が悪かったので家督を譲ることになったのだが、その「翌年」に死去したというのだ。ただし、ウィキペディアによると死亡したのは「翌年」ではない。
松平信忠 - Wikipedia
諸説があるのだろうが、ネットで検索して見ると1524年に死去としてるものは複数あるので、誤植とかじゃないはずであり、つまり、少なくとも「翌年」に死去したと伝えられていたということだけは確実なんだろう。



次に信忠の弟の松平信定。信忠を継いだ子の清康は家臣に殺されてしまった(森山崩れ)。清康の子の広忠はまだ十歳。松平氏の実権は信定が握ることとなり岡崎城に、広忠は伊勢に逃れた。その後いろいろあって、広忠が岡崎城に復帰。

ついに天文6年(1537年)6月には、岡崎城留守居であった信定の同調者・松平蔵人信孝(三木松平家。信定の甥、清康の弟。)でさえも広忠派に転身。広忠を岡崎城に迎え入れ、その威に服した。

信定は情勢の不利を悟って、やむなく広忠に帰順。宗家簒奪騒動は鎮静化するも、広忠への姿勢は恭順とは程遠い不遜のまま。弟松平義春等とも対立したが、間もなく天文7年11月27日に死去。法号、一心道見。

松平信定 - Wikipedia


こっちも失脚した「翌年」に死んでいる。これって一体?


こういうことが続けば(続かなくても単独でだって)、現代なら当たり前のように「陰謀論」が唱えられるだろう。そしてそれに反発して「ただの偶然だ」って言う人も出てくるんだろう。


なんてことを、ふと思った。


(でも、実際のところ、松平氏については知らないけれど、他のケースで、こういうタイミングの良い死について、歴史学者が思わせぶりなこと書いている、というか断定だけは避けているけれど暗殺の可能性に言及していることは珍しいことじゃないですよね。現代の出来事についてだったらトンデモ視されるのにね。不思議といえば不思議)