内藤文書

松平広忠、内藤甚三が三木から寝返ったことを賞す | 歴探

今度大蔵以弄、此方へ御同心祝着候、如約束為給知百貫之分進置候、然者鷹落名田・野羽之前々の給分、不入ニ進之候、此両所相改、其都合ハはすみ所々ニ而引替、百貫之首尾ニ可被執候、猶委細阿大可申候、弥々御走舞候て、三木落居候やうニ憑入候、於末代給知不可有相違候、仍如件、

天文12年8月10日付。「三木落居候やうニ憑入候」とあるから、これが「三木城攻略に尽力するように」ということなんだろう。


これでほぼ決まりか。


まだ釈然としないところがあるんだけれど、これ以上は単に否定したいから否定しているみたいになってしまう。


あと『松平記』で先に読めないと書いた部分だけれど『岡崎市史』に載っていた。見落としてた。

 織田殿下知により、上和田の城に松平三左衛門を置、岡の城、三木の城に蔵人殿衆を置き、上野城に酒井左衛門尉を置、岡崎へ敵をなし候間、国中大方敵に成、岡崎一城に成申候事、

これを『岡崎市史』は「三木城落城以前のことらしい」としている。三木城落城時期は不明。『岡崎領主古記』は6月とし、旧岡崎市史は8月27日とする。


もし、その頃だとすれば、逆に言えばそれ以前に「国中大方敵に成、岡崎一城に」なっていたということになる。その状況が変わるのは天文17年の小豆坂合戦ということになるだろうから、5年近くも持ちこたえたことになる。


その間、『三河物語』は忠倫を暗殺したことを記すのみで、いきなり竹千代人質(天文16)の話になる。『松平記』も竹千代人質の話になる。なんか不思議。


もっとも三木落城がもっと後のことだった可能性もある。そもそも落城してないという可能性もあるのでは?