「東国紀行」における天文13年の三河

巴々さんのコメントより

天文十二年半ばの時点で、岡、上和田、三木が織田方の手に落ちていて、岡崎城が孤立していたとするなら、天文十三年に谷宗牧が勅使として大浜・鷲塚を北上して岡崎に入った時に、岡崎を囲む包囲網を突破して入ったということになります。宗牧は常滑で水野監物から戦に巻き込まれないようにと注意を受けているので、そういうものに気づいたなら日記に書いているはずです。しかも、その折に阿部大蔵が尾張表に出陣していて留守でした。こちらの方を宗牧は日記に記しているのですね。

宗牧の『東国紀行』に上記のようなことが書かれているそうだ。これは大変重要な指摘ですね。今度図書館で確認してみます。


※というか、どこかで見たと思ったら
<論評>『三河武士は忠義に薄く』についての考察  »»Web会員«« : 水野氏史研究会
は巴々さんの記事だったんですね。


天文12年に岡崎城が孤立していたら天文13年に「尾張表に出陣」というのはいかにも不自然すぎる。まったくその通りだと思います。


しかし既に書いたように『松平記』には、

 織田殿下知により、上和田の城に松平三左衛門を置、岡の城、三木の城に蔵人殿衆を置き、上野城に酒井左衛門尉を置、岡崎へ敵をなし候間、国中大方敵に成、岡崎一城に成申候事、

と書いてある。これは、岡崎城が孤立している時に三木城も織田方にあったとしか読めないと思います。これをどう解釈すればよいのかという問題が発生します。


一つの考え方としては「『松平記』は間違っている」ということになるでしょう。ところで『三河松平一族』によると、安城城は「天文六年広忠帰還時にはすでに織田信秀持ちの城」としているそうなので、やはりこれも間違っている可能性が高いということになるでしょう。とすれば『松平記』のこの部分は信頼できないということになり安城陥落→信孝留守の間に領地没収・信孝織田に属す→岡崎孤立という流れの中で信孝放逐についてだけは信頼できるといえるのかということになるのではないかと思われます。


もちろん、信孝放逐については『三河物語』に同種の話が載っているので、それで担保できるということになるかもしれません。ところで巴々さんによれば「三河物語の広忠の事績における事件の発生順はあてになりません」ということだそうですが、『三河物語』もまた安城陥落→信孝放逐→岡崎孤立という時系列であり(広忠帰還を別とすれば)『松平記』と一致することになります。この一致をどう考えたらよいのだろうかという問題が発生するように思われます。なお現在の定説も「安城陥落→信孝放逐→岡崎孤立」だと思われます。しかしもちろんこれだと『東国紀行』の問題が発生するわけですね。このあたり学者はどう考えているのだろうか?平野明夫氏は「目標は水野氏であった可能性がある」としてますね。もっとも平野氏は安城天文16年陥落説ですけど。


さて、俺はといえば信孝放逐天文12年説を疑っているわけです。もしこれが天文13年以降であれば天文13年に三木城は敵対していないことになります。さらに安城陥落も天文13年以降だとすれば「安城陥落→信孝放逐→岡崎孤立」という時系列を保ったまま『東国紀行』の問題をクリアできることになります。

岡、上和田、三木の包囲網が完成して岡崎城が孤立するのは、やはり早くとも天文十五年以降かなという気がします。

ということであれば、全てが天文15年以降とすればよいのではないかと思います。


しかし、もちろんこの場合は「大竹氏所蔵文書」「内藤文書」との整合性が取れない。また北条氏康文書が「去年」と書いていることも(だいぶ近づくけれど)問題になる。


あちら立てればこちらが立たずの状態といえましょう。