松平信孝の放逐天文12年節の根拠(その2)

巴々氏のコメントをここに引用

鮟鱇様
一連の興味深い考察、勉強になります。とりあえず、事実関係を問うている部分だけ調べてみました。
平野明夫著『三河松平一族』によると、新編岡崎市史の新行紀一氏の記事をひく形で天文十二年に岡崎の家臣団達が松平信孝付の家臣達に知行を宛がっている書状が、大竹氏所蔵文書、朝野旧聞ほう藁、内藤文書にあると紹介されております。
最後の内藤文書での天文十二年八月十日付松平広忠判物によると松平広忠松平信孝の居城の三木城の攻略に尽力せよと宛先の内藤甚三に命じていたりするので、この年に松平信孝の追放があったとみて差し支えないでしょう。

三河松平一族』はおととい図書館で借りてきて今手元にあるんだけれど、まだ読んでなかったのでした。


「天文十二年八月十日付松平広忠判物」に「松平信孝の居城の三木城の攻略に尽力せよ」とあるのなら、天文十二年でほぼ間違いないよに思われます。ただし、そうであっても疑いたい気持ちが消し去れないのが俺の性分なのであります。


そのことを書く前に、まず猜疑心の強い俺は、この「内藤文書」を見てみたいという気持ちがあります。平野氏を信用しないわけじゃありませんが(というかよく知らないのですが)、やはり原文を見てみたい、本当にそんなことが書いてあるのかという思いはありますね。この「内藤文書」が『岡崎市史』では紹介されていないことも気になります(「史料編」の方にはあるんだろうか?)この手の史料はなかなか素人が簡単に見れるものじゃない可能性があるのでお手上げになるかも。


さて、この三木城攻めだけれども、『徳川実記』は先にも書いたように信孝放逐を天文16年としているけれど、それだけでなく三木城攻めについても書いてない。『三河物語』にも書いてない、信孝放逐の年も記してない。『岡崎市史』は『松平記』を引用している。『松平記』は近代デジタルライブラリーにあるけれど活字じゃないからド素人の俺は読むのが難しい。難しいけれどここにもおそらく書いてない。放逐の年も「其年正月」とあるけれど「其年」がいつなのかわからない(多分)。


もちろん調べなければならない史料は他にもたくさんある。それらを確認しなくちゃならない。ネットで調べたところでは『寛政重修諸家譜』(巻八百五十七 大田吉房)に「天文十三年三河国三木城攻の時戦死す」とある。年次は違うけれど三木城攻めがあったことが記されている。


けれどもド素人の素朴な疑問として、まず正月に広忠の代理として信孝を駿河に派遣した。その隙に知行地を奪ったという事件があった。その半年以上後になって城を攻めたというのがよくわからない。


土地を奪ったというけれど、土地は財布なんかと違って一ミリたりとも動かない。奪うためには実効支配しなければならないだろうと思う。さて『岡崎市史』によれば『松平記』に

「御屋敷を追捕し、番衆を置」き「御知行も悉此方より代官を申付」

とある。知行地に代官を申し付けたのは当然だろう。ただしそれでも城が信孝のものだったらいつ攻めてこられるかわかったものじゃない。もっとも信孝の知行地は「岩戸殿」と浅井松平の遺領を併合したものだから、それらの分は比較的安全なのかもしれない。


しかし、三木の周辺はその限りではないだろう。なぜ正月に主人が留守にしている間に奪わなかったのだろうか?そこで気になるのは「御屋敷を追捕し、番衆を置」の方。「御屋敷」とは何ぞや?普通に考えれば信孝の屋敷のことではなかろうか?いやド素人だからわからないけれど。もし「御屋敷」が信孝の屋敷であったのなら、それはどこにあったのだろうか?ド素人だから思うのかもしれないけれどそれって城の中にあったんじゃ…でも、もし正月に城を奪ったのなら、なぜ『松平記』はそう書かなかったのだろう?やはり違うか…


ただ、『松平記』には落城の記事はない(と思われる)。そしてこの記事の後に「三木の城」が出てくる。全然読めないのだが、織田信秀が出陣して、三河の国中は大方敵で岡崎城だけになったというよう書いてあるように見える。つまり三木城は信長方であるようにみえる。似た話は『三河物語』にもある。そして竹千代が人質として駿府に送られることになる。広忠が奪った三木城はいつ信長方になったのだろう?『松平記』はそもそも三木落城を記してないので、落城してないとすれば自然な話ではある。だが「御屋敷」は広忠が奪っている。


これも素人考えだけれど、三木が落城したという話と落城しなかったという相反する話があって、苦肉の策として一方を「御屋敷」としたのではないかなんて思ってしまう。


あと、これは当然の疑問ながら三木城攻めの時に信孝はどこにいたのだろうか?


ただし、正月に三木城を奪わなかった理由を考えることは可能かもしれない。広忠と信孝は対立していたわけではない、信孝が強大になったので将来叛くかもしれないと広忠の家臣が憂えて知行地を奪ったのだ(というのが一般的な見解)。だから城までは奪わなかったのだと。いや本当にそう考えているのかはわからないけれど。しかし知行地を奪っておいて、そのままおとなしく従うだろうと考えるというのも大甘な考えのように思われる。



※ ところで『岡崎市史』にはこの記事に関連して「図」が添付してある。「三木古城図」(松下鳩台著「家山樵談」所載、冨田稔氏蔵)とある。それを見ると、

三木信孝公御悪心有之に依テ天文十二年○月三日岡崎より三木城を攻めさせられ三木落城」

と書いてあるようにみえる。「六月三日」なのか「正月三日」なのか俺には読めない。「天文十六年」の「六」とはかなり字体が違うように思うが。正月三日なら信孝が駿府にいる間に奪ったということであり、六月三日の場合でも、ここには正月の件が記されていないから一気に奪ったと理解している可能性があるように思われる。



何が何やらわからないというのが正直な感想。もちろん「内藤文書」があるからには、天文十二年説で確定ということになるんだろうけれど、しかしどこか釈然としないのだ。


まあ、素人には限界がある。『松平記』は活字本があるみたいだけれど図書館に置いてない。その他史料も見るのが大変そう。


※ 『岡崎領主古記』がネットで見れる。それによると三木城は天文十二年六月落城。というのは既に書いたが、この時に大竹・中根に感状を下されたとある。これはまさに「大竹氏所蔵文書」のことを言っていると思われ、すなわち『岡崎領主古記』の著者は「大竹氏所蔵文書」を三木城が六月に落城した根拠にしていると考えられる。つまりこの件に関しては『岡崎領主古記』に価値はない。直接「大竹氏所蔵文書」だけを考察すればよいということになりますね。『岡崎市史』だけ見てると違う印象を持ってしまったけれど。