松平信孝の放逐天文12年節の根拠

松平信孝の放逐天文12年節の根拠は? - 国家鮟鱇


その根拠はどうも「大竹氏所蔵文書」というものらしい。岡崎市史によると天文12年6月14日付けの書状に

中根弥次郎殿ニ弐十貫文、大竹源六殿ニハ主の名田を城ヘ納候分進之候、相のこり七人ニ百貫文進之候、少もふさた(無沙汰)有ましく候、万一無為ニ罷成候共、三木へ返し置候事ハ、八幡も照らん有ましく候、両人へ御まかせ候へく候

と書いてあるのだそうだ。「三木」とは信孝のことで、信孝に返してはならないということだろう。返すということは元は信孝の知行地であったということだろう。


ただし「三木」とあるのは、おそらく信孝がまだ三木城の主だからであろう。というわけで三木城が奪われるのは天文12年6月以降のこととなる(と思われる)。ところが『岡崎領主古記』という史料によると、まさにこの6月に奪われたことになっているらしい。また「旧市史」(岡崎市史別巻)が8月27日のこととしているが典拠が示されていないそうだ。「旧市史」には「岡崎古記には、六月三ツ木落候とあれど、誤である」とある。


ところでネットを見ると『岡崎領主古記』は信用できないという話がいくつか見える。とりわけ興味深いのは

安城市史や岡崎市史が典拠とする岡崎領主古記は、江戸末期編纂の地誌で信憑性ゼロ。

WIKIPEDIAの故城一片之月の史実捏造???? - 歴史 - 教えて!goo
おそらく同一人物と思われる
ノート:安城市 - Wikipedia


実に興味深い話でこれから熟読するつもりだが、この人によると安城市史や岡崎市史は『岡崎領主古記』に信を置いて『徳川実紀』の記述を否定する傾向があるようだ。


なぜこの主張が興味深いのかというと『徳川実記』には、信孝放逐が天文16年のことと明記してあるからだ。つまり、上の人が主張していることと同じことがここでも見られるわけだ。


もちろん「大竹氏所蔵文書」がそれを補強しているのだが、本当にこの文書がそのことを示した文書なのかは考える余地があろう。


『岡崎領主古記』が天文12年6月のこととしている三木城の落城は実は6月ではないと岡崎市史はいう。すなわちこの史料は必ずしも信用できないということだ。ところが天文12年というところだけは信用する。


このへん結構怪しいのではないだろうか?


これはもちろん天文16年に安祥城が落城したということを記しているらしい北条氏康文書の解釈に大いに影響があることである。