信長の父「三河を支配」(その2)

信長の父「三河を支配」中京大教授が新説 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)


これはかなり歴史ファンにとってはかなり重要なニュースで、感想を書く人も多いんじゃないかと思ったんだけれどなかなか見つけることができない。gooのブログ検索で探したらあるにはあるんだけれど単に記事をコピペをしたものばっかりだし。実際に反応が無いのか、俺の情報収集能力が劣っているからなのか…


さて、この問題は2つに分けなければならない。


一つは「織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたこと」


もう一つは「徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高い」ということ。


一般の関心は後者の方が高いと思われるが、後者は前者が正しいときに、そこから派生して導き出される仮説であり、前者が正しかったからといって必然的に後者が正しいということになるわけではない。


で、最も肝心なのは前者が正しいのかということなんだけれど、それを検証するのはかなり手間なので、前者が正しいとした場合に後者が正しい可能性がどの程度あるのかということについて。


記事には「誤りの可能性が高い」とあるけれど、俺にはそうは思えない。俺の見方では、通説どおりなら後者の説は成り立たないが、前者が正しいとすれば後者の可能性も成り立たなくはないといった程度の話ではなかろうかと思う。


通説では織田信秀に攻められてピンチになった松平広忠今川義元に救援を要請。息子の竹千代(家康)を今川に差し出そうとしたが、途中で戸田康光の裏切りによって竹千代は織田秀信に売られたことになっている。
戸田康光 - Wikipedia


この時に実は岡崎城が陥落して、松平広忠が竹千代を自らの手で信秀に差し出したのだとしたら、つまり広忠は信秀に降服したということだ。


三河松平氏駿河の今川氏と尾張の織田弾正忠という強敵に挟まれていた。生き残るには織田と同盟して今川に対抗するか、今川と同盟して織田に対抗するかという選択肢があり、広忠は後者を選択していた。今川と織田では今川の方に恩があるとはいえ、戦国の世であるから、どちらを選択するのかはどちらに利があるのかという点が重要で、何があろうと今川様にどこまでも付いていくなんてことはないだろう。


通説では竹千代を信秀に奪われたが、広忠は信秀に降らず今川を頼り、今川は援軍を送り織田方に勝利した。
小豆坂の戦い - Wikipedia


このとき信秀は竹千代は殺さなかった。しかし松平方からみれば信秀が竹千代をどうするのかなどわかりようもなく、すなわち広忠は竹千代が殺されても止むを得ないと考えたということだ。それはどちらに付く方が松平家にとって有利かという冷徹な判断によるものであっただろう。


これが実は違っていて、本当は広忠は信秀に降服して、自らの手で竹千代を信秀に渡したのだとするなら、話は大きく違ってくるのではないか?岡崎が陥落したというだけなら広忠一行は逃亡したということも考えられるが、人質を渡すというこは信秀に従ったということだろう。


史実として今川軍が三河に進出して織田軍と戦ったということは揺るがないだろう。なぜ今川は軍を出したのか?通説では広忠が援軍を要請したことになっている。しかし広忠が信忠に降服していたのだとすれば、今度は信秀方として今川と戦うというのが最も自然ではないのか?


表向き降服したポーズを見せて、裏では今川と交渉していたということだろうか?そこまでするほど広忠は今川に心酔していた、あるいは信秀を信用していなかったということだろうか?またその場合は信秀を「裏切った」ということになるわけだが、そのことが織田方の史料たとえば『信長公記』などに出てこないのはどうしたことだろうか?これも家康が命じて改竄したとでもいうのだろうか?なお今川が勝手に進軍してきて、それを知った広忠が寝返ったのだとしてもやはり「裏切り」だろう。


俺は、広忠が自ら竹千代を人質として信秀に差し出したというのが事実なら、その部分だけではなく相当広い範囲において大掛かりな歴史の改竄が行われていたとしなければならないように思うのだが、そんなことは到底無理ではないのか?すなわちこれは「陰謀論」の類であろうと思えてならないのである。