崇源院(すうげんいん、天正元年〔1573年〕- 寛永3年9月15日〔1626年11月3日〕)は、天正時代から江戸時代初期の女性。諱は江/小督(おごう)もしくは江与(えよ)とされるが、再婚時に改名した可能性もあり、どの名が正しいのかは確定できていない。従一位の位階を賜った際には朝廷から「達子」(さとこ)の諱を受けた。生年には異説もある。
彼女は「小督」とも呼ばれる。
しかし歴史上最も有名な「小督」は彼女ではない。
小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年未詳)とは、平安時代末期、高倉天皇の後宮の女性。桜町中納言藤原成範(ふじわらのなりのり)の娘で、藤原通憲(信西)の孫。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。
類稀な美貌の箏の名手であったと伝えられる。始めは冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の建礼門院徳子の父であった平清盛の怒りに触れ、坊門院範子内親王(高倉天皇第二皇女)を出産したのちに出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが(『明月記』)、その後の消息は不明。
「類稀な美貌の箏の名手であったと伝えられる」
ここ注目。
美作に「小野於通」という女性がいた(先に書いた於通とは別人ということになっている)。彼女の伝説について柳田國男は、「小野於通」(筑摩書房)で、
是にも亦一つの小督局式の語り伝えが残つて居る。
と論じている。詳細を引用すると長くなるので省略。
「小督」と呼ばれる「於江与」もまた「聖なる遊女」の属性を持っている可能性があると考えられるのではないだろうか?