淀君は聖なる女性(その6)

小野小町が遊女であるという伝説がある。その小野小町の小野氏とは、

小野氏(おのうじ)は、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族。姓ははじめは臣であったが、八色の姓により朝臣に列せられた。孝昭天皇の皇子である天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする。

近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられており、京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人の墓碑がある。

小野氏は、遣隋使となった小野妹子をはじめ、遣唐使などを務めたものが多く、東北や九州などの地方官僚などを務めたものも多い。

小野氏(ウィキペディア)


ところで、猿女君という古代氏族がいる。

猿女君(さるめのきみ・猨女君)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。アメノウズメを始祖としている。

日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った。氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明している。実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。

古事記編纂にかかわった稗田阿礼を出した稗田氏は、猿女君とは血縁関係にある。

他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあった。

猿女君(ウィキペディア)

弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあった。」


小野氏は猿女の君の属性を継承していたのである。猿女君の祖、アメノウズメが遊女の原型だという説があるのはご承知のとおり。


そして何より注目しなければならないのが「猿女君」「君」である。


といってもこれ以上はよくわからないんだけれど、とにかく「淀君」という呼称は、「遊君」や「辻君」からの連想ではなく、「古代の聖なる遊女」を背景にしているのではないかという可能性に注目すべきだと、俺は思うわけなんですね。


(ちなみにアメノウズメはサルタヒコの妻という話もあるんだけれど、サルですよサル。サルと呼ばれた男と、ここでも繋がってるんですね)