⇒林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原
②長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収
長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状。1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えています。また「何事も頼辰へ相談するように」とも述べています。5月の段階で信長は四国への出兵を命じており、戦闘を回避しようとした元親と信長の違いが明らかになります。
この文でとても気になるところがある。
それは「何事も頼辰へ相談するように」というところ。
頼辰とは先に書いたように石谷頼辰のこと。これが原文そのものだとしたら長宗我部元親は石谷頼辰のことを「頼辰」と文書に書いたことになる。通説では石谷頼辰は元親の正室の異父兄であり元幕臣。その人物を諱で呼んでいることに違和感がある。もっとも俺は当時の文書に熟知しているわけではないが。
ちなみに石谷頼辰の官位は兵部少輔。
⇒石谷頼辰 - Wikipedia
兵部少輔は従五位下相当
⇒兵部省 - Wikipedia
長宗我部元親の官位は従五位下、宮内少輔[注 2]、土佐守、侍従、贈正五位、贈正三位
⇒長宗我部元親 - Wikipedia
とあるが、侍従は秀吉時代。土佐守は養老令では正六位下。
⇒Template:官位相当表 (養老令2) - Wikipedia
気になるので画像を拡大して確認してみたんだけれど「頼辰」と書いてあるようにも見える。しかし俺の手に負える代物ではない。さらにこの文書にはあて先として「利三」と書いてあるのがはっきりと確認できる。これまた諱である(利三の通称は内蔵助)。斎藤利三もまた通説では元親夫人の異父兄であり、かつ元親が交渉しようとしている織田信長配下の明智光秀の部下である。
このあたり特に気にすべきことではないのか?それとも重要なことなのか?(素人目にはまるで両名が元親の家来かのようにみえる)とても気になる。
詳しい人がいたら教えてほしいのだが。