都議会ヤジについて(その7)

しつこいようだけれど、奇妙な論理が絶え間なく続いているのでまた書く。


何度も書くが塩村議員の発言は
1、高齢出産や不妊治療を受ける女性が増加しているという問題
2、 東京は都会であるがゆえに周囲との関係性が希薄で、女性が妊娠、出産、育児に関わる悩みを一人で抱えてしまうというという問題

この二つの問題を抱える女性のサポートを東京都は積極的に進めていくべきだという主張である。


ここに「少子化問題」という話は一切出てこない


しかるに、なぜかこの都議会ヤジの問題を論じる際に「少子化問題」の話が頻繁に出てくる。なんでそうなるんだ?



少子化であろうとなかろうと、悩みを抱える女性のサポートは必要ではないのか?


いや、必要ないという意見もあるだろう。小さな政府を志向する考えによればそうなる。とはいえ小さな政府を志向するといったってどの程度なのかは人それぞれであり、小さな政府を志向すれば必ず反対するというわけではないが。


というわけで、悩みを抱える女性のサポートをするべきか否かについては、福祉社会を目指す「大きな政府」か、それとも「小さな政府」かというのが対立軸になるはずである。


少子化問題があるから賛成する、少子化問題がないから反対するという対立ではないはずだ少子化問題があるから不妊や高齢出産に悩む女性をサポートすべきだというのは、裏を返せば少子化問題がないならサポートは必要ないということになるではないか。そんな対立軸はどう考えたっておかしいではないか。


それはまさに「女性は産む機械」という発想である。俺は当時、上のような考えを持っていながら柳澤大臣の「産む機械」発言を批判している人達をみて滑稽さを感じたので記事を書いたことがある。


ただし、現実には取り組むべき諸課題の中でどれを優先すべきかという問題がある。優先順位を考える過程で、少子化問題があるから不妊や高齢出産に悩む女性のサポートを最優先課題にしようということは起こるだろう。


しかし、それはあくまで「悩んでいる女性をサポートする必要がある」ということが大前提にあって、その次に少子化問題があるから早急に実施しようということであって、少子化問題がないなら必要ないという話ではないのである。さらにいえば、現実とは逆にもし日本が人口が増えすぎて社会問題化していたとしても、福祉社会を目指すならば公的なサポートは推進されなければならないものである。当然のことではないか。


少子化問題の話をしていないのに、なぜか少子化問題の話にすり替わるというのは、「悩む女性をサポートする」を「少子化対策のために悩む女性をサポートする」と自動的に置き換えているからであろう。