⇒林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原
結論から言えば明智光秀の謀反の動機を巡る論争が完全に決着することは永久に無いだろう。
なぜならそれは内心の問題だから。たとえ光秀自筆の謀反の動機を書いた文書が見つかったとしても本当のことが書かれているとは限らない。タイムマシンが発明されて本能寺の変直前の光秀にインタビューすることができたとしても、霊媒師が光秀の霊を呼び出すことができたとしても決着がつくとは思えない。そもそも本人でさえ真の動機がわからないということだって十分ありえる。自分の行動の理由を完璧に説明できる人などいるだろうか?
(訳知り顔で決定打ではないなんて言う人がいるけれど、一体何が発見されれば決定打になるというのだろうか?歴史問題の大半は結局のところ推理で穴埋めするしかないのだ)
とはいえ、行動するきっかけとなったものはあるだろう。それが動機の全てではないにしてもだ。
本能寺の変が起きたとき大阪には四国の長宗我部征伐のための兵が集結していた(この兵が光秀軍と戦った山崎の戦いの主戦力となる)。その長宗我部氏と光秀の部下の斎藤利三には密接な関係があった。
長宗我部元親の正室の父は幕臣の石谷光政、母は蜷川親順の娘といわれる。一方、斎藤利三の父は斎藤利賢、母は蜷川親順の娘といわれる。つまり元親夫人と利三は母を同じくする兄妹であったと考えられている(ただしどれだけ確実なものなのかはわからない)
⇒元親夫人 - Wikipedia
また利三の実兄は石谷光政の養子となった石谷頼辰。幕臣石谷氏は長宗我部氏の幕府への交渉の窓口となっていたらしい。足利義昭が京を追放されると明智光秀の家臣となったらしい。
⇒石谷頼辰 - Wikipedia
今回「発見」(発掘?)された文書はその石谷家に関する文書であり、その中で斎藤利三、石谷頼辰、長宗我部元親の緊密な関係が確認され、中でも本能寺の変直前の天正10年(1582) 5月21日の長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状は元親が信長への恭順を示すものとして大いに注目される。
元親が恭順を示したにもかかわらず四国征伐の兵は大阪に集結したままであり、それが光秀謀反と関係している可能性は大いにある。少なくとも何の関係もないと考えるのは無理があろう。
ただし、長宗我部氏と緊密な関係があるのは斎藤利三と石谷頼辰であり、明智光秀自身は彼らの上司であるというだけで、直接長宗我部氏と強いつながりがあるわけではないだろう。したがって
信長は当時、四国攻めの準備をしていた。元親と関係の深い明智光秀が恭順の意を示した元親を攻めようとする信長を止めようと本能寺の変を起こしたとする「四国説」があり
⇒長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前 - 47NEWS(よんななニュース)
とはあるけれど、それだけの理由でハイリスクな謀反を起こすだろうかという疑問はある。
ところで、これも動機が不明な荒木村重の謀反の理由だが、複数の説があり、その中に
村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説[13]。
⇒荒木村重 - Wikipedia
というのがある。
本能寺の変もこれと同様、斎藤利三と石谷頼辰の行動が発覚すれば光秀も連座して処罰されることを恐れての謀反であったのかもしれない。
もし、そうだとしたら斎藤利三と石谷頼辰は何をやらかしたのだろうか?ということになるが、考えてみればそもそもこの文書にある和平交渉自体が信長の関知しない、信長にとっては余計なお世話、むしろ信長の計画を邪魔するもの、信長を激怒させるものだったのではないかという気がしないでもない。
ここのところは、この文書の詳細その他を調べてみなければならないけれど…