兵農分離

兵農分離を行った証拠は実はない - Togetter

以前にもツイートしたが、織田信長兵農分離を行ったとする証拠は、『信長公記天正6年正月29日条の記述が唯一である。少し長くなるが、訳文を引用してみよう。
kurmacf 2012/06/27 01:05:30

正月29日、御弓衆である福田与一の(安土城下の)宿所から火事が発生した。ひとえに妻子が引っ越してきていないため(宿所の管理が疎かになって)、火事が起きたのだと(信長は)ご判断なされ、直ちに菅屋長頼を奉行としてリストを作り、調査した。(続く)
kurmacf 2012/06/27 01:05:57

すると、御弓衆60人・御馬廻60人、合計120人も妻子が引っ越してきていない者がいると判明し、一度に処罰することとなった。御弓衆の中から失火が出たことは、なによりの不祥事だという(信長の)上意によって、岐阜城主である織田信忠(信長の嫡男)に使者で命じて、岐阜から奉行を出して、(続
kurmacf 2012/06/27 01:06:21

尾張に妻子を残している御弓衆の私宅をすべて焼いて回らせた。そのうえ、私宅の周囲の竹木まで切り取ってしまった。この結果、どうしようもなくなって、120人の家臣の妻は安土城下へ引っ越してきた。今回の罰として、安土城下に新しい道を造るよう命じられた上で、みな赦免された。(終わり)
kurmacf 2012/06/27 01:06:34

問題となっているのは、信長直属の弓衆・馬廻120名の家族が、尾張から安土城下に引っ越してきていないということであった。これに信長は激怒し、尾張を管轄する信忠に命じ、強制的に家族の引越をさせた。なお、ここで家を焼いているのは、犯科人居宅に対する処分として中世では一般的な行為である。
kurmacf 2012/06/27 01:09:13

さて、これのどこが兵農分離なのだろう?この記事は、馬廻というエリート家臣たちを、本拠地安土城下に集住させようというものである。ようするに、重臣の城下町集住策である。それが天正6年(1578)という政権末期にいたるまで、まだ実現できていなかったということを示す記事に過ぎない。
kurmacf 2012/06/27 01:10:56

重臣の城下町集住は、既に15世紀の段階で、朝倉氏が分国法で定めている。それをようやく信長が実行に移せた、というのがこの記事なのである。どう読んでも、信長が兵農分離なる政策を実行したという証拠にはならない。そして他のどの史料をみても、信長・秀吉が兵農分離を行った証拠は出てこない。

kurmacf=丸島和洋氏。
丸島 和洋 - 研究者 - ReaD & Researchmap



これに対し、

@kurmacf このエピソードは知っていましたが、まさか兵農分離の論拠になっているとは…。軍役帳的なものが遺されているのだとばかり思っていました。
ugata_noto 2012/06/27 01:14:33

という反応があるけれど、俺も同じく、このエピソードを知っいたがが、まさか兵農分離の論拠になっているとは知らなかった。


ところで『信長公記』には信長が清洲から小牧山に移転するときのエピソードもあるのだが、信長は最初に二ノ宮山に移転すると布告した。

「この山中へ清洲の家宅を引っ越しするということは、まことに難儀なめぐりあわせだ」と、上下の者の迷惑はひととおりでなかった。
『原本現代訳 信長公記』(榊山潤訳 教育社)

この時点で清洲から小牧へ、さらに岐阜へと引っ越していても良さそうなものだが、御弓衆の家族がなぜか尾張に住んでいる。


もひとつわからないのは、信忠の奉行が焼いた弓衆の私宅はどこにあったのかということ。馬廻の家を焼いたとは書いてないから弓衆だけだとして60件。尾張国内に散らばっているのならかなりの手間である。けれど小牧山のエピソードを見ると清洲にあるようにも思える。


もちろん安土よりも清洲の方が領地に近いということは言えるだろうけれど。



ところで「兵農分離」というけれど、世の中には兵士と農民だけがいるわけでなし。商人や職人もいるのである。清洲は商業の発達した都市であり「商工」に従事しているものが多数いたと思われる(秀吉の妻の実家杉原氏など)。農民と商工民との違いは農民が収穫期などには動因することが困難だということだ。


信長の軍隊には非農業民が多くそれが躍進の要因だという話を聞いたことがある。その当否はわからないけど。商工業者を城下町に集めるのは農業民を集めるのよりは簡単であろう。福田与一という人物が何者なのかということを考えてみる必要もあるのではないか?福田氏の家業が清洲を本拠とした商業である可能性はないだろうか?


あと「兵農分離」の「兵」とは何かというのも当然重要な問題だ。


もひとつついでに、『信長公記』が唯一の証拠というけれど、俺は秀吉の「刀狩令」が根拠になっているものだとばかり思ってました。